ヴィクトリア朝小説におけるヒーローの凋落(マリオ・プラーツ)

いや読ませます。「安いから買った」なんて失礼なことを書いて悪かった。ディケンズの章をちょっとめくって見ただけでも、「ディケンズはサドの読みすぎで登場人物の性格が歪んだ(p.137)」とか「『エドウィン・ドルード』はマックス・エルンストのコラージュに似ている(p.139)」とか「ディケンズは鞭打ちの性的なサディスティックな意味をはっきりと理解していた(p.387注)」とか奇怪な説がてんこ盛りになっていて飽きない。そして、こういった奇説怪説が苦虫を噛み潰したような文体で淡々と叙述されているのがたまりません。「こんなことあたりまえでしょ? あんたら何面白がってるの? この世に面白いことなど何もないのだよ」みたいな。

批評家を乱暴に二種類に分類して、「本を読んだ気にさせるタイプ」と「読もうとする気にさせるタイプ」に分けると、マリオ・プラーツは明らかに前者であろう。帯の推薦文の書き手には最も向かないタイプである。というか、彼がある本を論ずると、その論考は吸血鬼の一噛みさながらに、対象となった作品を、死臭を漂わせながらも不死にするようだ。