『怪の物』(「ゴシック名訳集成 西洋伝奇物語」)

 
ついに出た『ゴシック名訳集成』。そのなかでも一番のページ数を占めるのはおなじみ涙香先生の「怪(あやし)の物」です。原作者はエドモンド・ドウニーというイギリスの作家。イギリス人も阿呆なものを読んでるんだなあ、というのが一読したときの印象でした。

[・・・]何か間違いでも有りては取り返しならずと、周章(あわて)て彼れの後を追い、原の中に出で、彼方此方と尋ぬるうち、一方にて貴方(あなた)様の叫び倒るる声を聞き候。
 
扨(さて)こそと気も狂乱の有様にて其所(そこ)に馳せ附たるに、貴方様は早や気絶し、三郎は傍らにて、倒れし貴方様の姿を眺め、殺気の心に満々たる様子にて、長き舌を吐き貴方様の顔を嘗め居り候。(p.453、 原文総ルビ)

これはまるで初期楳図かずおの世界ではないですか。長き舌を吐き貴方様の顔を嘗め居り候・・・(´Д`;) 筋を割ってはいけぬので詳述は避けますが、結末も典型的な楳図ラストなのでした。*1

しかしこういうのを読んでると、日本古来の伝奇と同臭のものを横文字小説の中に嗅ぎ付けた当時の人のおののきが伝わってくるようです。このころの翻訳は、『新陰陽博士』(<ホームズ短編集)とか『モルモン奇譚』(<緋色の研究)とか、タイトルの付け方からして、実に翻訳者の伝奇の血が湧き踊っているではないですか。

「緋色の研究」を『モルモン奇譚』と訳すのは、いまの推理小説観からすれば言語道断でしょう。しかしホームズ物の長編の面白さの半ば以上はその伝奇的プロットにあるのではないでしょうか。その意味では『モルモン奇譚』は作品に(一面的ではあるが)正しく共鳴しているといえます。

一期一会という言葉がありますが、「緋色の研究」を『モルモン奇譚』と、「緑の小人(?)」を『怪の物』と、そして「アッシャー館の崩壊」を『アッシャア屋形崩るるの記』と訳せるような感性が存在していた時代こそ、泰西ゴシック小説と日本文学の伝統が綯い合わされることができた一期一会の機会だったような気がしました。

最後になりましたが、この『怪の物』の本文決定の際、あえて縮刷版を底本にした編者の見識を讃えたいと思います。文庫という入れ物を考えると、あまりにアカデミックになるよりは、万人に読みやすいようなテキストを提供するのが王道というものでしょう。これは岩波文庫の話ですが、むかし林達夫がヴォルテール『哲学書簡』を訳した際にもやはり万人の文庫ということを考え、テキスト的には善本とされていないものの当時のインパクトを生生しく伝えている版を底本としたという故事を思い出します。

*1:『半魚人』とか