エリアーデ幻想小説全集第2巻を読む(1)『十四年昔の写真』   ISBN:4878935766


『十四年昔の写真』はルーマニアからはるばるマーチン神父に会いに来た主人公ドミトルの物語である(物語の舞台は明示されていないが、たぶんエリアーデが当時いたシカゴだろう)。マーチン神父は四年前、ドミトルに奇跡を見せた。彼はいながらにして故郷のドミトルの妻の喘息を直し、また不思議なことにそれ以来妻は日一日と若くなり、彼が持っていた十四年前(奇跡の顕現から数えると十年前)の写真の姿に近づいていく(とドミトルは主張する)。
しかし四年ぶりに会ったマーチン神父は昔の彼ではなかった。彼は詐欺師として馬脚をあらわし、スキャンダルを起こし教会を追放され、安酒場で飲んだくれる浮浪者デュゲイへと変貌していた。ドミトルに行った奇跡さえ覚えておらず、かっての信仰を「神と名づける偶像」、「一生背負って歩く死体」と呼び後悔している始末である。
が、しかし、物語の最後のパラグラフでデュゲイはもう一度マーチン神父に変貌し、演説をぶつ。

「……それはわれわれの罪だ、真の神のことを知ったのに、そうと言わなかったわれわれのせいなのだ。あのとおりナイーブな、偶像崇拝的な、虚妄の信仰を持つドミトルの方がわれわれよりも真の神により近いのです。そうして真の神がまた顔を見せるときに、それを最初に見るのもまた彼だろう。教会に現われるのでもなく大学に現われるのでもなく、このわれわれのところに、おそらく街頭に、おそらくどこかの酒場に、思いもかけず、突然に現われるであろう、しかしわれわれには分からない、われわれは“彼”を見たと証言することはないであろう……」
ドミトルは目を覚まして、デュゲイを食い入るように眺めた。顔は微笑みで輝いていた。
「マーチン博士が話している」と呟いた。「火のように、真剣に話している、預言者みたいに……」(p.71)

ここではマーチン神父=デュケイは「聖なる顕現」と「卑俗への失墜」の両態で登場している。ここで連想されるのは中井英夫『幻戯』( ISBN:4488070035 )である。『幻戯』の語り手も天才マジシャンとしがない倉庫番という二つの顔を持つ。

――よしよし、かりにそれならそれでもいいじゃないか。いや、その方が私にとってはよほど楽な人生だし、なんならそのとおりだといってもいい。どうせ人生はいま作っている“幻茶屋”どおり、他人には何が見えているのか、美人か骸骨か判りはしないのだ。そしてそれこそ私が残生を賭けて完成させようとしている本当の幻戯、あの目眩(くら)ましの本体に違いはないのだから。(創元版全集p.669)

この部分は、「なんなら」とか「どうせ」とかいう投げやりな副詞があるおかげで、中井の真意が誤解されやすくなっているが、眼目はむろん最後の一文、なかんずく「私が残生を賭けて完成させようとしている」にある。それも、現実の上に空中楼閣としての幻影を完成させるのではなくして、“幻茶屋”すなわち美人と骸骨とを同時に生み出す仕掛けを完成させようとしているのだ。ここにおいて、中井英夫エリアーデの方法意識は近接していると言えるだろう。
このような聖と卑の共存、同じ事件・同じ存在が聖の顕現でもありかつ卑への失墜でもあるという考え方は、中井英夫的、あるいはエリアーデ的な精神構造の持ち主にとっては自然な発想らしい。(あるいは、拙豚がいまポツポツと訳しているペルッツの『最後の審判の巨匠』にしても、考えようによっては、そういう話でもある)
それから『十四年昔の写真』と『幻戯』との類似点はまだある。一つは、神が一度死んでいること。『幻戯』では妻の死という形をとって。『十四年昔の写真』では、マーチン神父の信仰への懐疑という形で。
もう一つは逆に流れる時間である。『十四年昔の写真』で主人公の妻が若くなったのと同じ現象が『幻戯』でも起こる。

神は妻をマジックハウスに閉じ込め、二十五年の歳月を加える代りに引き去って私に返し与えたのだ。その私はといえば地上の掟どおりの歳をとって、六十歳をとうに過ぎたというのに!(創元版全集p.665)

聖と卑が同時に顕現する場面において逆行する時間。これはあとで他の作品と併せて見てみようと思う。