ゴシックよもやま話(1)〜『地獄風景』

伝奇ノ匣のゴシック編は全三巻になるそうだ。7月には高原英理氏の「ゴシック的思考」も出る。まことに慶賀にたえない。この機会に拙豚もその驥尾に付し、ゴシック小説への偏愛をポツポツと語らん。
で、「地獄風景」であるが、巷ではこの作品は「パノラマ島」の二番煎じということになっている。乱歩御大も自註自解で「[…]小説はファースみたいなふざけたものになってしまって、犯人当てにはまことに不適当であった。これもまた『パノラマ島』の幻想の繰り返しで、いわば『道化パノラマ島奇談』である(創元推理文庫『盲獣』p.354)」と、謙遜している。
だが、拙豚は、幼少時の初読以来、一貫して「地獄風景」の方が好きである。「パノラマ島」のイマジネーションの貧弱さは12才の拙豚を辟易させたが、「地獄風景」の主人公治良右衛門の颯爽たる悪漢ぶりには、子供心にもどこかしら襟を正さしめるものがあった。
実際、胎内回帰願望をもっぱらとする「パノラマ島」に比べ、「地獄風景」ではより男性原理が支配しているではないか。これは両者の主人公の性格造形にも現れているが、より顕著なのはラストシーンの差であろう。周知の如く「パノラマ島」は温泉にノホホンとつかる探偵のシーンで終わる。目の前に紅葉のような手首が流れて来ましたが、裸女たちは気にする風でもなく遊び戯れておりました、みたいな感じの。それに比べ、「地獄風景」のラストは、まるで「城の中のイギリス人」なのですよ:

「このスイッチが何を意味すると、諸君は思う、このスイッチこそ、ジロ楽園建設の最終目的を暗示するのだ。このスイッチの金属に火花が散るとき、ああ、ジロ楽園にどのような地獄風景が現われることだろう。僕はそれを思うと嬉しさに胸が破れそうだ。諸君にその光景が見てもらいたいのだ。それゆえにこそ君たちをここまでおびき寄せたのだ」((創元推理文庫版p.345))

どうです。カコイイでしょう。「パノラマ島」の腑抜けたラストより断然上でしょう。まあ、それは個人の好みとしても、少なくとも、「パノラマ島」と「地獄風景」が全く異なる小説である、決して後者は前者の二番煎じではないということは納得いただけるのではないかと思う。
で、大切なのはこのラストが確信犯ということですね。乱歩という人は時として苦し紛れにいきあたりばったりに筋を進める癖もあったらしいが、この作品に限っては、「地獄風景」というタイトルの付け方からして、最初からこのラストを想定していたとおぼしい。
で、いままでの話のどこがゴシックとどういう関係があるのかというと、まあ要するにこの「地獄風景」という一個の暗黒小説は、乱歩がもっともゴシックに接近した作品ではないかということだが、そればかりか、拙豚は、この「地獄風景」がベックフォード「ヴァテック」の直接の影響下に成ったものではないかと妄想している。もちろん乱歩が「ヴァテック」を読んでいたという積極的な証拠はない。エッセイ「怪談入門」の中で乱歩が既読としているのは「オトラント」「ユドルフォ」「マンク」の三作のみである。しかし拙豚の豚鼻は、まぎれもない同臭を「ヴァテック」と「地獄風景」に感じるのである。
たとえば「地獄風景」の「地獄谷」のくだり、あの恐ろしい運動会のくだりは、「ヴァテック」の次のシーンの本歌取りなのではないだろうか。

教王のはうは、段々と衣裳を剥いで、腕をできるだけ高くかざして、賞品を一つ一つ輝かせて見せるのだつた。が、片方の手で褒美を受取りに馳せよる子供にそれを与へながら、いま一方の手で彼はその子を深淵に突き落とすのだつた。その底では魔神が絶え間なく不服げに繰り返していた。
「もつとよこせ! もっと…・・・」
この恐ろしい奸計はたいそう機敏に行われたので、馳せつける子供は前の者の運命に気付かなかつた。それに観衆のはうは、夕闇とへだたりのためにかれらの様子が見分けられなかつたのである。(牧神社版「ヴァテック」p.69)