『The End』/『時間は実在するか』(その2) 

それでは、「現在なき過去」、スタンドアローンの過去とはどのように実在するのであろうか。それを見るために、まず、普通の「現在―過去」の関係を見よう。例えば拙豚が、本日12月27日現在「ああ今年のクリスマスイブも淋しい夜だったなあ」としみじみ思うとき、「今年の淋しいクリスマスイブ」という「過去」が想起され、さらに副次的に「一昨年の淋しいクリスマスイブ」とか「その前の年の淋しいクリスマスイブ」とかいう「過去」が「現時点において」想起される。このように普通の世界では「過去」とは「現在」と隔絶した別世界である。

ところが、過去しかない世界ではどうかというと、「ああ今年のクリスマスイブも淋しい夜だったなあ」としみじみ思うと、「淋しいクリスマスイブ」が、突然そこに(目の前に)実在することになるのだ。なぜなら「過去しかない世界」において「過去」とは別世界ではなく、目の前にある世界であるから。これは『The End』の第十章までの世界とよく似ている。(というか、正確にいうと、『The End』の第十章までの世界を、仮にマクタガートの時間モデルで記述すると、こうなりうるということであるが)

われわれが見る夢においても、これに似たことは起こる。ただ、『The End』の第十章までの世界と我々の夢が異なるのは、我々の夢においては架空の過去が捏造されるということである。これについてはフロイトの『夢判断』(ISBN:4102038035)に印象的な例がある(漫画の絵解きをしているくだり)。今本がないので引用はできないが、目覚めるほんの数秒前に夢うつつで聞いた水滴の音を契機として「何時間にもわたる長い夢」を見た男の話である(記憶違いだったらすみません。明日図書館で確かめてきます)。あくまで常識の世界を出られない我々は、過去しかない(あるいは現在しかない?)夢の世界においても「現在―過去」の関係を捏造する(=一瞬のうちに何時間もの過去を創りあげる)のである。

ところで、この過去しかない世界では「知覚」と「想起」の相違はどこにあるのか? 目の前で実在している「淋しいクリスマスイブ」を知覚するのと、「淋しいクリスマスイブ」を過去の事象として想起するのは、過去しかない世界ではどう異なるのか?

因果関係が逆転している。「想起」においては想起が先で、目の前の実在が後。「知覚」においては目の前の実在が先。しかしその区別がつくのは、当の本人(『The End』の用語で言う<私>)だけであろう。第三者が外から見る限りでは両者は判別不能でないかと思う。


(続けたいが、正直、この話題がここからどう発展するのか見当もつかない)