『The End』/『時間は実在するか』ISBN:4575234885/ISBN:4061496387


たそがれSpringPointで拙豚日記が取り上げられた。やれうれしや、というわけで、若干脇道には逸れるがマクタガートの話をもう少し続けるなり。とは言うものの『時間は実在するか』は第四章以降は読んでないし、第三章までも、なにぶん畜生のこととて、正しく理解したかは怪しいものであるが…
さて、俗に「時間の非実在性」を主張していると称されるマクタガートであるが、拙豚が『時間は実在するか』を読んで理解した限りでは、彼は時間そのものは必ずしも否定していない。彼が否定しているのは「過去から現在、現在から未来へ流れる時間」である。
これはどういうことかと言うと、彼は時間のモデルとしてA系列とB系列というものを持ってくるのだ。で、まず、B系列とはいかなるものかというと、例えばある現象を8ミリカメラ(たとえが古いかw)で取ると、その現象の一瞬一瞬が、一こま一こまに定着されるわけだが、その一こま一こまに、午後7時24分37秒とか、午後7時24分38秒とか、数字(時刻)を対応させていくとする。そのときの午後7時24分37秒とかそういうのがB系列の時間である。物理学上の時間の記述としてはこれで十分なのであるが、マクタガートは、このB系列では時間の本質を不十分にしか把握してないと主張する。なぜなら、過去とか現在とか未来とか、時間にとって本質的な概念が、B系列の枠内では記述できないから。
それで、彼は「過去・現在・未来」で捉えられる時間把握をA系列と名付ける。で、彼の議論の要点はA系列とB系列は互いに論理的に相容れないということなのだ。くわしくは『時間は実在するか』第3章を参照されたい。
しかし(ここから拙豚のパラフレーズになるが)だからといって「過去・現在・未来」という言葉で示されるものが実在していないと言うわけではない。それは、いわば、時間(B系列)とは無関係に実在しているのだ。マクタガートの用語で言えば、「B系列は実在する。A系列も実在する。ただし両者はお互いに無関係に実在する」ということになろうか。換言すれば「過去から現在へ、リニアに流れる時間は実在しない」ということでもある。なぜなら「現在」とか「過去」とかいうA系列の概念に「時間」というB系列の概念を持ち込むと論理的矛盾をおこすから。「そんなこと言っても、今食ってる晩飯は、明日になれば、昨日食った晩飯になるではないか」という反論が当然返ってこようが、それは池に映った月を本物の月と言っているようなもので、別に一日経てば現在が過去になるわけではないのだ。そういうわけで、(未来は置くとしても)「過去」と「現在」には超えがたい断絶がある。「時間」が経てば「現在」が自然に「過去」になるというものではないのだ。
つまり、「過去」と「現在」は、あたかもユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の関係のように、お互いに断絶しているのだ。
しかし、過去とは、現在があってこその過去ではないか? その意味で、過去は現在に依存してるわけだから、上に書いたように、「お互いに断絶している」とは言えないのではないか? しかし必ずしもそうではない。典型的な過去として「頭の中で想起された過去」があるが、現在なき想起として夢がある。夢とは、いわば、現在のない過去、独立した過去、時間(B系列)の束縛を免れえた過去と言えよう。
そして、「時間(B系列)の束縛を免れえた過去」は、夢以外の形態ででも存在しうると拙豚は思うのだ。そしてその例が『The End』の第十章までではないか。作中の至るところから聞こえてくる「終わりだ終わりだ」という声は、その世界が過去であることを示しているのではないか。
(眠くなったので今日はここまで)