『The End』/『リカルド・レイスの死の年』ISBN:4575234885/ISBN4882027704 ―第二の死と時間について―


『The End』に出てくる町が略奪された場所であることの痕跡は、昨日書いた「測量」の他にも、例えばその図書館の博物学的緻密さ(あの描写はハプスブルク帝国の牙城であったウィーンの自然史博物館の中を連想させる。もっともあそこにあるのは本ではなく標本だけれども)とか、銅像や紙幣に見られる「見知らぬ偉人」の肖像、あるいは反転された文字(ЯやИは現実世界でも反転している!)などに現われているが、そういった瑣末な解釈を行っても、本質から遠ざかるばかりであろうと思う。それよりも肝心な点はその時間の扱いである。
略奪された地=植民地は固有の歴史を持たないが故に、時間も持たない。より正確に言えば、そういった場所では時間の欺瞞性が暴露されやすくなっていると言ってもいいだろう。マクタガートの時間非実在論(ISBN:4061496387)では、「流れる時間(=A系列の時間)」は論理的に否定されている。つまり、ちょうど、「日が昇る」とか「日が沈む」とか日常会話では言っていても、実際に動いているのは太陽ではなく地球であるように、「時間が流れる」という表現は、ある種のメタファ以上のものでもなく、要するに欺瞞であるとマクタガードは主張するのだ。で、過去の伝統/歴史がその背中に重くのしかかっている人々ほど、その欺瞞から抜け出ることは難しいのではないかと拙豚は想像する。そして、カルペンティエールを筆頭とするラテンアメリカ作品群にしばしば登場する正常に流れない時間は、中南米がもと植民地であったこと――「流れる時間」の欺瞞性に気付きやすい環境にあったこと――が幾分か影響しているのではないかとも拙豚は思う。
『The End』の町の人々にとってもその事情は同じで、砂時計を繰り返しひっくり返し続けることによってしか時間は現われないのだし、時計にも針が無いのだ。でも、そうだとすると、時間のないところで終わりはどのように可能なのだろうか。作中に響き続ける「終わりだ終わりだ」の歌のように、一瞬一瞬が終わりなのだろうか。ジョゼ・サラマーゴ『リカルド・レイスの死の年』と対比することによってそれを見てみよう。
この長大な小説は全体としても『The End』と似た雰囲気を持っているのだが、特筆すべきはその設定である。医師リカルド・レイスはポルトガルの国民的詩人フェルナンド・ペソア(実在人物)の死の報に接し、十六年ぶりにブラジルからリスボンに帰ってきた。小説はそれから九か月ほどの間のレイスの生活を淡々と書くのであるが、このリカルド・レイスというのは、実はペソアの異名なのだ。この「異名」というのはペソアの場合特別な意味を持っていて、『リカルド・レイスの死の年』の解説をそのまま引用すると:

ペソアは詩作にあたって本名であるフェルナンド・ペソアのほかに主として三つの異名、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポス、アルベルト・カエイロを用いていた。異名とは、ペソア自身の説明によれば、本名者の人格とは別の人格、人生をもった人物の名前であり、ペンネームや別名とは違う、要するにフェルナンド・ペソアという一個の詩人のうちに宿る人生・芸術などについての多様な価値観、側面を表現するものとして考え出された文学装置である。ペソアは異名者たちのイメージを明確に示そうとしたのか、彼らの経歴・肉体的特徴を創作し、異名者のあいだで序文や追悼文を書かせるなどしている。(同書p.456)

(たぶん続きます。なかなか核心に到達しないでつ)