『稲生モノノケ大全 陰ノ巻』を読む前に(1) ISBN:4620316490


「稲生モノノケ大全」が待ちどおし。本来ならばこの手の感想は読後に書くのが普通なれど、待ちきれなさのあまり、出版前に書いてしまうなり。マー賑やかし、前夜祭のたぐいと思ってくださればよし
ところで拙豚が「稲生物怪録」を知ったのは稲垣足穂経由である(というよりも、そもそも「稲生物怪録」そのものを拙豚はまだ読んでない)。したがって拙豚の「稲生物怪録」観には足穂体験の強烈な刷り込みが入っていることは否定できない。「稲生物怪録」を足穂が翻案した「山ン本五郎左衛門只今退散仕ル」のラストシーンはこんな感じである。

アノ心細サガ、今デハ何カ悲シイ済ンダ気持ニ変ツテイル。秋ノセイダロウカ? 然シ、コンナ何事カガ一段落付イタ様ナ、ソレトモコレカラ新生活ガ始マルカノ様ナ気持ハ、僕ハ今迄何処ニモ覚エタコトガナイ。[…]山ン本五郎左衛門ノ顔ヲ僕ハ生涯忘レルコトハナイデアロウ。殊ニ「只今退散仕ル」ノ尻上リノ一言ハ、何時何時マデモ忘レハシナイ。槌ヲ打ツ心算ハナイガ、僕ノ心ノ奥ニハ次ノ様ニ呼ビ掛ケタイ気持チガアル。山ン本サン、気ガ向イタラ又オ出デ! (筑摩版足穂全集第3巻 pp.142-143)

なぜ怪人二十面相は手を変え品を変え、妖怪博士や宇宙怪人や電人Mなど使って小林少年をいたぶるのか? なぜ『とらんぷ譚』のジョーカーに出てくる吸血鬼は、犠牲者の首筋に歯をあてる前に五十二枚の「譚」を語り終える必要があったのか? 上記ラストシーンにおける足穂の解釈によれば、この江戸時代の小さな実録=物語は、それらの謎を(あるいはむしろ世界の秘密の一端を)解き明かす銀の鍵なのだ。
それと比較すると「草迷宮」に出てくる秋谷悪左衛門は軟弱の一言につきよう。なんと美女の取次役・守護役に甘んじているではないか! これはまるで怪物くんの家来になったドラキュラを、あるいは人間の味方になったゴジラを見るような情けなさである。少なくとも今まではそう思っていた。
しかし、しかしである。これも澁澤龍彦体験による刷り込みのせいでないか、と拙豚は最近思うようになった。なぜなら「草迷宮」そのものを読む前に、拙豚は澁澤龍彦の「ランプの廻転」を読んでいるからだ。足穂の呪縛から逃れて「稲生物怪録」を虚心に読むことが難しいのと同様、「草迷宮」の読書においても拙豚は「ランプの廻転」の呪縛から逃れられていないのではないか。
三島由紀夫は「山ン本五郎左衛門只今退散仕ル」をこう評している。

肝腎なのは、稲垣氏の掌中で、できるだけ原文の叙述に忠実に従いながら、一つの古い忘れられた怪異譚が、いかなるものに形を変えられたかということなのである。そして一旦その物語の根本的な寓意が変えられると、物語のどんなディテールも、原文に忠実であればあるほど、完全にその意味その芸術的効果も一変してしまうということになる。(『小説とは何か』p.31)

この評は「ランプの廻転」についてもそっくりそのままあてはまる。つまり「稲生物怪録」と「山ン本五郎左衛門只今退散仕ル」の関係は、「草迷宮」と「ランプの廻転」の関係に等しいのである。
草迷宮」は澁澤龍彦によって「物語の根本的な寓意が変えられ」てしまった。そのため「物語のどんなディテールも、原文に忠実であればあるほど、完全にその意味その芸術的効果も一変してしまうということになる」。その結果として「ランプの廻転」で描き出されるところの「草迷宮」像は、澁澤氏自身の信仰告白、あるいは決意表明に他ならなくなってしまうのである。ちょうど「山ン本五郎左衛門只今退散仕ル」が稲垣足穂にとってそういうものであったように。
(たぶん続く)