『稲生モノノケ大全 陰ノ巻』を読む前に(2)「草迷宮」のことなど ISBN:4620316490


…えーそういうわけで、なるべくシブサワ引力圏から離れたところで「草迷宮」を改めて読んでみようと思う。拙豚にとって「稲生物怪録」とは、そのタルホヴァージョンに他ならないから、あえてタルホ的に「草迷宮」を読む。
ところで、「ランプの廻転」における草迷宮論の中で「ここはちょっと弱いナ」と拙豚が感じるのは、小次郎法師は葉越明のアルテル・エゴ(もうひとりの自分)ではないかと論ずるくだりである:

この魔人につづいて、魔人の眷属に守護されている高貴な女人が登場するが、ここにいたって、物語は急速に大団円に接近する。すなわち、夢幻能のアナロジーでいえば後ジテの登場だ。
ただし、このとき明は昏々と眠っていて、秋谷屋敷に出現した魔人や美女に応対するのは、最初からのワキ役である小次郎法師なのである。私が前に。小次郎法師は明のアルテル・エゴではないかといったのは、このためである。(河出文庫『思考の紋章学』pp.18-19)

たぶんここで澁澤が言いたいのは、「草迷宮」では稲生平太郎が葉越明と小次郎法師の二人に分裂している(=メイン(シテ)は明であるが、最後の場面にはワキの小次郎法師が明のアルテル・エゴとして大団円に立ち会う)といったことなのだろう。しかしこれはいかにも苦しいと拙豚は思う。
あえて明のアルテル・エゴを持ち出すならば、最後に登場する美女こそが明のアルテル・エゴに違いない。澁澤に倣って夢幻能のアナロジーで言えば、小次郎法師=明のアルテル・エゴ説では、ワキと前シテが同一人物になり、能の美学に反するではないか。一方、美女=明のアルテル・エゴ説だと前シテと後ジテが同一人物になるから、この方が能的には自然である。同時にタルホ的にもこの方が自然なのである。「美女とは長持ちのする美少年である」とタルホはどこかで言っていた。
つまり、明の探索は澁澤の言うような「永遠の不毛な彷徨(同書p.24)」などではない。すでにして明こそが世界の中心なのである。このとき明の探索行は、自らを捜し求める、あの「青い鳥」のそれと重なるだろう。
―もっとも、拙豚のこの考え方は、澁澤説と完全に相反しているわけではない。澁澤はこうも言っている。

ここで明らかになるのは、秋谷屋敷という一つの迷宮世界、一つの魔圏が、主人公たる明の退行の夢の世界でしかなかった、ということだろう。またしても同心円のイメージが現われる。しかも今度は、すべての物語の時間がヴェクトルを逆にして、明の夢に向かって収斂するのだ。いや、明の夢が大きくふくれあがって、すべての物語の時間を呑みこんでしまったのだといってもよい。(同p.22)

つまり、美女の登場も、明の夢の世界の出来事であるということで、この考えをとるならば明らかに美女=明(といって悪ければ明の分身)である。ただそれを「退行」として語るのには、拙豚は激しく抵抗を感ずるのなり(゜(○○)゜) プヒプヒ



(たぶん続きます。もし大和書房版『巌谷小波お伽文庫』が発掘できさえすれば…)