「セランポーレの夜」

エリアーデ幻想小説全集〈第1巻〉1936‐1955

エリアーデ幻想小説全集〈第1巻〉1936‐1955


「ホーニヒベルガー博士の秘密」と対をなす作品「セランポーレの夜」は、「ホーニヒベルガー博士」の中で起こった怪異の絵解きにもなっている。
この「セランポーレの夜」で、作中の「私」は百五十年前に起こったはずの出来事を体験する。それを「私」はこう解釈する。

…私たちが何らかの形で、ボーズの観念の正常な進み具合に干渉したことは間違いありません。そこで、ボーズは、邪魔されないようにというので、私たちを、彼の秘教的な力によって、別の空間、別の時間の中に投げ込んだのです。別の言葉で言えば、セランポーレの近くで百五十年ほど前に起きた出来事の中に私たちを組み入れた。…(p.422)


他者に働きかけ、その者を別の時間、別の空間に投げ込むことが可能な存在。これは7月15日に書いたゼルランディ夫人=瑠璃夫人説の一つの傍証となろう。しかし、ヒマラヤの修道院に住む「私」の友人スワミ・シヴァナンダはその考えをしりぞける。

「あなたの推論はすべてたいへん興味深いですね。しかし、まったく間違っています。すこし散歩しませんか?」と彼はいきなり私を散歩に誘った。
私は彼のあとについて、ガンジス川の岸から離れて、森へ通じる小道をゆっくりと登っていった。
「それが間違っているのは」と、彼はつづけて言った。「過去のものであれ、現在のものであれ、未来のものであれ、これらの事件に実在性(リアリティ)を認めているからです。しかし、ねえ君、私たちの世界のどんな事件も、実在(リアル)ではないのですよ。この宇宙で生じるいっさいのことは幻影です…」(pp.426-427)


これを聞いて、「私」は、一つの反論を行う。この反論は壺をついていて、これが2ちゃんねるならば「いま1がいいことを言った!」と思わず書き込みたくなるほどだ。「私」が次に述べることは幻想文学の愛読者ならば、おそらくは必ずせざるを得ない反論であろうと思う。

私は混乱したまま言った。「この世における万物が幻影である、そのことは認めましょう。しかし、これらの幻影でさえも、そこにある実体の仮象を付与する、それ自身の一定の法則を持っているでしょう」


まさにそのとおり! それ自身の裡に宿る「法則」こそが幻想文学を単なる妄想から区別しているのはないか。「法則」という言葉が悪ければ「精神」といってもいい。かの澁澤龍彦だって「もっと幾何学的精神を」と言っていたではないか。
しかしスワミ・シヴァナンダはこう再反論する。

「幻影や仮象が、あなたの言うような法則に従うとすれば、それはこの法則を信じる人によってのみです」と、スワミ・シヴァナンダはつづけた。「しかし、スーレン・ボーズは、おそらく彼だけではないでしょうが、幻影や仮象の世界を動かすそんな<法則>は信じていなかったのでしょう」(p.427)

……