『恐怖』(モーリス・ルヴェル)

「ルヴェル未訳長編を読む」シリーズ第一弾は1908年に発表された「恐怖(L'epouvante)」。それにしてもこれは、長い間埋もれていたのも無理はないと思わせるほどの変な話だ。この長編を正当に評価できるのは、もしかしたら異形のミステリが軒を競うように次々と出版されている現代日本だけかもしれない。

物語は夢見る新聞記者オネジム・コーシュが深夜、友人の家を辞するところから始まる。所はパリのレンヌ街。終電はもう出てしまった。大通りに出て車をつかまえるしかない。

夜は若く、彼も若かった。人気のない夜道を歩くうちに、彼は徐々にポエミーな気分になってくる。ああ、いまここにペンとインクがあれば、世紀の大傑作を物してみせるのに!

ふと彼は前方に怪しい人影を認めた。夜目が利く彼は、300メートルほど先の家並みから彼らが出てきたのが見えたのだ。彼らはこちらに向かって歩いてくる。嫌な予感を感じた彼は、物陰に隠れて三人組をやりすごすことにした。男二人に女一人の三人組、そのうち背の低いほうの男はこめかみから血をタラタラと流している。小脇にはいかにも怪しそうな包みを抱えている。 

新聞記者としての本能が彼のうちに目覚めた。三人組をやりすごした彼は、彼らが出てきたとおぼしい家を見つけた。ドアに手をかけると、なんと鍵がかかっていないではないか。中に入り、暗闇の支配する邸内を、月の光を頼りにあちこちさがすうちに、ついに犯行現場を見つけた。その部屋の中は狼藉を極め、ベッドの上には喉を掻き切られた老人の死体が横たわっている。部屋は血痕だらけである。

どうする? 警察に知らせるか? いや警察なんて無能な奴らに任せておいてはだめだ。ここは一つ俺がアマチュア探偵となって、事件を解決してやろう。まったく人間狩りほど、血を沸き立たせるものはないからな。素人なら見過ごしてしまう手がかりも、この俺様の目を逃れることはできまい。天が与えてくれたこの絶好のチャンスを存分に味あわないという手はない。

……だが待てよ。素人探偵としての活躍は確かにぞくぞくする体験ではあろうが、たった一つ欠けているものがある。それは追われるものの不安だ。猟犬に執拗に追跡され逃げ回る野獣は、どんな気持ちがするものだろう? どうする? 二者択一だ……探偵か犯人か…… 素人探偵なら俺の前にも何百人といる、しかし犯人になり代わる奴は俺が初めてだろう。よし犯人になってやれ!

そう決意した彼は、自分が犯人であるという証拠を犯行現場に残し、自分の勤める新聞社に「これこれの家で兇行が行われたので記事にするように」というタレコミの電話をかけたのであった…。

M.R.ジェイムズの驥尾に付して「猟奇への戒め」とサブタイトルを付けたくなるような話である。この作品はある意味では『暁の死線』のような純真な青年が巻き込まれるサスペンスもの、別の意味では『バビロンを夢見て』や『彼岸過迄』がそうであったような、夢想家探偵ものでもある。あるいは『大時計』を連想する人もいるだろう。『猟奇歌』で言えば

号外の真犯人は
俺だぞ……と
人ごみの中で
怒鳴ってみたい

みたいな感じか。かなり違うかも。