ブラッディ・マーダー

ブラッディ・マーダー―探偵小説から犯罪小説への歴史

ブラッディ・マーダー―探偵小説から犯罪小説への歴史


この本では「犯罪小説」という語がかなり広義に使われていることにまず注意する必要がある。著者によればドイルのホームズ物も犯罪小説なのである。そして著者は「犯罪小説」というカテゴリに明瞭な定義を与えていない。

犯罪を扱う小説一般について論じる場合、まず最初に解決すべき問題は、そのテーマの範囲をどのように限定するかということである。探偵小説史家は、それが一種のユニークな文芸形式であり、犯罪小説とかミステリー物とかとは画然と相違していること、また単なる警察小説とは混同すべきではなく、あれやこれやのスリラー物とのあいだには明確な一線を画さねばならぬと主張する。しかし私と同様、そのような主張は有益というより混乱を招くばかりで、むしろ大ざっぱに犯罪小説かサスペンス小説(短編小説を含む)と命名しておくのが無難で、しかも理にかなった便法だと確信するならば、相当に強力な反対意見の壁に抗しつつ話を進めなければならなくなるのである。(本書p.13)

最初に明瞭な定義を与えない、という作戦はこの本では成功していると思う。それは作品評価の公式化、叙述の硬直化を防いでいる。そして作者の時系列的な記述を読み進むにつれて、読者の中に「犯罪小説」というジャンルが、実体を伴って自ずから立ち現れるようになっている。読者は、文学史が書き換えられる現場に立ち会うというまたとない経験を、この本の読書により得られるであろう。
この文学史の書き替え、即ち「推理小説史観」から「犯罪小説史観」への組み換えは、従来のポーの位置付けへの異議申し立てという形でまず現れる。探偵小説の始祖はポーであるという通説に対抗して、シモンズは{ゴドウィン・ヴィドック・ポー}の三つ組を提示する。ポーに先立ち1794年に発表されたゴドウィン『ケイレブ・ウィリアムズ』の史的重要性を彼はこう説明する。

『ケイレブ・ウィリアムズ』における特殊な重要性は、後年に発達した探偵小説の拠り所を全面的に否定しているところにある。このジャンルは法の支配が正しく、絶対的な善であることによって成り立つ。ゴドウィンの信条はその正反対で、それらすべてをことごとく悪とみなすことにある。現代の犯罪小説の流れの一つは、官僚主義に蝕まれた捜査機構の腐敗を痛烈に批判し、警察官と街のギャングたちの癒着ぶりを非難する。このタイプの作家は数こそ比較的少ないものの、主要な流れであるという事実は否定できない。その代表的な作家にダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーの名が挙げられるが、それらの作家たちの主張はいち早く十八世紀末に、この流れの優れた先駆者ゴドウィンのペンで表現されていたのである。(p.42)

うみゅみゅみゅみゅ。突っ込みどころ満載のこのくだりを読んで著者シモンズを小一時間問い詰めたくなる人もきっといるだろう。しかしある種の批評作品を読む醍醐味とはそういったものなのだ。ふとひらめいた思いつきとしか思えないものが、無防備に天真爛漫に次々と書き綴られていくのを読む楽しみは、例えば中村真一郎頼山陽とその時代』ISBN:4122003768『近代文化史』ISBN:4622006081きの快感に近い。
ポーについてはこう言っている。

このまぎれもない天才的人物が完全に独創的な文芸形式を追及する過程で用いた推理とかパズルとかは、ほんの小さな役割を果たしたにすぎなかったのだ。ポーが”探偵小説の父”であるのは議論の余地がないにしても、そのような栄光はもともと彼の念頭になかったのである。彼が生涯追い続けたのは芸術の女神――その真の名は”センセーション”にほかならなかったのだ(p.58)

読者諸賢はこれを我田引水と思われるだろうか? しかしある種の批評作品を読む醍醐味とはそういったものなのだ(こればっかり)。
こういった紹介をすると、シモンズを奇説ばかり立てている変なオヤジと思われるかもしれない。しかし本書を通読した限りでは、著者はむしろオーソドックスな文学趣味の持ち主だと思う。本書序文でこんなことをヌケヌケと言っている。

だが何にもまして最良の犯罪小説が、たんに娯楽読み物であるのみならず立派な文学作品であることを、本書によって若い世代の読者層にも確信してもらいたいものだと願ってやまない。(増補改訂版の序文より)

彼は基本的にはリアリズムの信奉者で、下手な文章や、荒唐無稽な描写や、キャラ萌えのためのキャラ萌え(シリーズ・キャラクター)に耐えられない人なのである。彼は純粋パズラーの荒唐無稽さを退けるのとまったく同じ態度でエルロイやヴァクスの粗悪な暴力描写を退ける。その点で、かのエドマンド・ウィルスン先生と共通している点もあるが、ウィルスンとの決定的な相違点は、彼は文学を娯楽とみなしている所にあろう。そのため、読書という快楽の追求に、より柔軟な姿勢を見せることができるのである。
この正統的文学趣味の持ち主としての彼の眼が、本書のあちこちで、通説とは違った評価を個々作品に与えている。例えばロス・マクドナルドを論じて「さむけ」の「さ」の字も出てこない(pp.291-293)とか、クリスチアナ・ブランドの最高傑作を「猫とねずみ」とする(p.378)とするとかである。
翻訳に関しては、残念な点が一つある。巻末解説によると、本訳書は1972年のオリジナル・バージョンと1985年増補改定バージョンと1992年増補改定バージョンの全部の版の内容が収められているそうだ。しかし高山宏氏が『独身者の機械』の訳書について言っていたように、後年の増補改訂版がオリジナル・バージョンより必ずしもいいとは限らない。オリジナル版の持っていた緊迫力が増補改定によって薄められることも往々にしてある。本書の場合、三つの版を無節操に統合したため、全体の論旨がうまく通らなくなっているのではないかと思う。著者シモンズは1985年版の前書きで言っている。「旧版の最終章を見るにつけ、十年以上も前に示した予言の数々が、いかに正鵠から外れていたかを痛感させられた」そして全体にわたり加筆訂正を行っているようだ。この「統合版」と称する訳書ではどの部分が1972年オリジナル版に基づき、どの部分が1985年あるいは1992年版に準拠しているのか解題で明瞭に書いてほしかった。