わが解説作法

推理小説にはたまに「読者への挑戦」というものが挿し挟まれている。つまり、手がかりはすべて与えたから犯人を当ててみろと作者が読者に挑戦しているのだ。

こういう挑戦は受けて立つほうである。紳士たるもの、白手袋で頬をはたかれれば拾わざるをえまい。なになに……スペイン岬のテラスで色男がすっぱだかで真夜中に殺されていたと。服はどこにもないと……うーんと……よしわかった! 犯人は〇〇嬢。殺された色男は実はすごい変態で、〇〇嬢のブラジャーとパンツをいつも身につけていた。〇〇嬢は色男を殺したあと裸に剥いて自分の下着を回収した。パンツだけ無くなってるのは変だから服は全部持って帰った。これで謎はすべて解けた!……と思って解決篇を読むと真相にかすりもしていない。

ボルヘスはどこかで、エドガー・アラン・ポーは推理小説を発明したばかりでなく推理小説の読者をも発明したと書いていた。つまり、表面に書かれたこととは別に真相があると信じ、文中の手がかりからそれを見つけだそうとする読者である。自分もまたポーによって発明された読者であって、病膏肓に入りまくって、ふつうの小説を読むときにも推理小説的にしか読めなくなった。つまり小説というのはすべからく(誤用)本文全体が問題篇で解決篇はどこにもない推理小説であるとしか思えなくなった。ちょうど東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』みたいな。

だから訳書の解説を書くときにも、エラリー・クイーン(探偵のほうの)になったつもりで自分の推理を語るわけである。今度の『イヴ』の解説もそんな風に書いてしまったが、「殺された色男は実はすごい変態で……」みたいなことを得得と語っているのではないかと内心少々不安でないこともない。