ラヴクラフトより異形

 
面白かった。一気に読んだ。

一般的にいって、「生前は一握りの崇拝者にしか理解されなかったが、死後に評価が高まり、今では古典とみなされている」といったパターンは、文学史や他の芸術の歴史にあまた見られる。われわれに身近なところではラヴクラフトがその好例といえよう。

本書に登場するブルックナーもその一例であるらしい。「あるらしい」といったのは自分がクラシック音楽をほとんど聞かないからだが、ともあれ非常に変な音楽であるようだ。その特徴は本書から引用すれば、「……くどくて頑固で愚直で大仰だ。強調したい音形は駄目押しのようにユニゾンで何度も繰り返す。和声の展開は精緻で、メロディ自体は優しくロマンティックなところも多いが、その作り方進行のさせ方に繊細さがない。静かにしっとり続くかと思うと、いきなり大音響になったりする。自分のやりたいことだけ続けようとするみたいな、朴念仁の音楽だ」

聞いたことのない者にも「なんだかすごく変」という感じはヒタヒタと伝わってくる。そして本書で活写される「ブルオタ祭り」は、「クトゥルーの呼び声」の一場面さえ思わせる異様なものである。いあ、いあ、ぶるっくなー。

ブルックナーの音楽と生涯は本書では「ダメ」とか「残念」とか「不器用」とか「どんくさい」とかいうタームで語られる。ラヴクラフトの作品と生涯も、「悪文」「形容詞過多」とかそのたぐいの似たようなタームで語られることもあるけれど、ブルックナーが彼と異なるのは、その残念感があまりにも残念なために非ユークリッド的なスケールに高まって、今に生きる同様に残念なわれわれの生き方にまで影響を及ぼすことである(というのがたぶん本書のテーマではないか)。

この小説のヒロインである代々木ゆたきはブルックナーの愛好家だが、彼女はそれをただ音楽として聞いていた。ところが彼女が偶然出会ったブルックナー団の三人は、ブルックナーを聞くだけでなくブルックナーを生きている。「ブル活」なるものを実践し、己に敵対する有力者をひとしなみに「ハンスリック団」と呼んだりする。

かくて小説が進むにつれてブルックナーの生涯と音楽は、オタクとかいじめとかいう現代のリアルな状況と徐々にシンクロしてくる。この過程がちょっとマジックリアリズム風味もあってじつによい。とくに暗示的に語られるポン(ブルックナー団の一人)のいじめ体験から少し間を置いて引用されるブルックナー伝第四章「史上最悪なる我がコンサートの果てに」のいじめ描写は壮絶で、ある意味この小説のクライマックスだろうと思う。

ヒロインもまた、「ブルックナーを聞くこと」から「ブルックナーを生きること」に、半ば無意識にスタンスを変えていく。しかもブルックナー団の三人のような現実に跼蹐した形ではなく、もっとポジティブに。そして小説のラストで、みずからのうちの「残念性」「どんくささ」を逆手にとり、いわば「残念性」をバネにして生きる方向を定めるにいたる。

おお、これを異形の勝利と言わずしてなんと言おう。気のせいか、なんだか「インスマスの影」のラストがチラチラ思い浮かぶではないか。

【おことわり】これは肝心のブルックナーの音楽を一音も聞いていない者による感想です。ブルックナーに親しんでいる方の感じ方とは相当に異なるであろうことは予想されますので、前もって謝っておきます。すみません。