脳髄はものを考えるところか?

ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化

ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化

 
「ボディ・クリティシズム」の序章&第一章が黒死館を思わせるとすれば、第三章の議論はいやおうなく「ドグラ・マグラ」を連想させる。というのは、着想(CONCEIVING)と題されたこの第三章では、conceiveという語が着想・懐胎という両義を持つことに注意が向けられているからだ。
「着想」は、文字通り「想」が「着」くことを意味する。つまり遥か天上のどこからか、アイデアが我々のもとに降りてくる(到着する)。同様に懐胎をconseiveという語で(あるいは「着床」という語で)表現するとき、それは「授かったもの」というニュアンスを帯びる。「懐」はもともと「ふところに入れる」という意味だから、「懐胎」とは(どこからか来たものを)ふところ(=胎内)に入れるというニュアンスを持たされる。

要するに「conceive=着想」「conceive=懐胎」の両者に共通するのは、アイデアなり子供なりは自ら作られるのではない、どこか抽象的なところからやってくるものだ、という考え方である。「胚の組成というか合理的設計図は受精以前にすでにできている」と考えたウィリアム・ハーヴェイは子宮の構成成分が見た目にも脳の灰白質そっくりなことに着目した。(本書p.323)

とここまで来れば「ドグラ・マグラ」まではあと一歩だ。この一大奇書にしても「conceive=着想」「conceive=懐胎」の両者を付かず離れずの形でテーマに取り上げているのだから。
前者は「脳髄は者を考えるところに非ず」という有名なテーゼとなって現れる。「ドグラ・マグラ」説(というか、作中のアンポンタン・ポカン君の説)によると、脳というのは中継局にすぎない。「腹が減った」と考えるのは脳でなく胃袋なのである。「疲れた」と考えるのは手足なのである。このポカン君説では、抽象的な「着想」は否定されていると言っていいだろう。なにしろ脳は中継局ではあるものの、イデアの世界から来る「アイデア」を受信する受信局ではないのだから。

一方、「胚の組成というか合理的設計図は受精以前にすでにできている」というのは、かの奇書を読んだ方ならお分かりのように、正木・若林両教授の学説上の一大対立点であった。その論争は奇態きまわりない人体実験へと発展する……そこで物語は「怪物」「グロテスク」というような概念に突入していくのだが、これも「ボディ・クリティシズム」と符牒を合わせていてなかなか興味深い。
 
(→1/15に続く)