身体による批評

 

 
 「黒死館殺人事件」一巻を覆いつくすメタファの大密林の肝をなすものといえば、一に身体、二に視覚、つまり眼科をメインとする医学的メタファだろう。その「視覚心理学・生理学偏愛」(現代教養文庫版「紅毛傾城」解題中の評言)癖は、編者松山俊太郎をして、「少年時に眼科医の知人がいて薫陶を受けたのではないか」と推測せしめるほどであった。

 そこに登場するのはまずダンネベルク夫人の輝く屍体、それから易介の理屈に合わぬ窒息死、それから伸子の不可解な姿勢による気絶と、この作品を引っ張っていく謎は、世の常のミステリのような密室とかアリバイとかいうものではなくして、生体死体をひっくるめた身体の謎だ。

 名探偵法水は古今東西に渡る博識をもってそれに立ち向かう。しかし彼の抽象的思考、あるいは彼の長弁舌、つまりイデアと手をとりあったロゴスから導かれる仮説は、あらたな事件が発生する度に(つまり新たな死体あるいは生体現象が出現する度に)手痛い打撃をこうむり、また一から改めて空中楼閣にも似た仮説を組まざるを得ない羽目に陥る。

 本書「ボディ・クリティシズム」の用語で言えば、最初はフィジオグノミック(観相学的)であった法水の考察は、事件が進展するにつれパソグノミック(動態観相学的)にならざるを得ないところまでに追い込まれていく。

 言うなれば彼の論理(あるいは妄想)は、生きているあるいは死んでいる身体によって不断に批評され、それによって物語は進んでいくのである。

 作者小栗がこういった作品構造の批評性にどこまで意識的であったか、さあそれはよく分からない。しかし「黒死館」がイデア/ロゴスの人法水の敗北として物語られていることが、作品に奥行きを与えているのは確かだろう。


 で、肝心の「ボディ・クリティシズム」はどうしたのかと言えば、まだ序章と第一章しか読んでないので何とも言いようがない。たぶん上に書いたことも、「ボディ・クリティシズム」の内容とはほとんど関係ないような気がする。

 しかしこの本の、時として牽強付会としか言いようのない博識とメタファのコンビネーションは「黒死館」を思わせるので忘れないうちに書いてみた。
 
(→1/11に続く)