『The End』/グザヴィエ・フォルヌレ ISBN:4575234885/ISBN:4772001646 ――天使について――


天使とは、もともと読んで字の如く天の使いであった。欧米の作品に天使が登場する場合、彼/彼女は大抵何らかのメッセージを携えてやってくる。しかし、その天使が日本に渡来すると、それは何か別の変なものに変貌したようである。ちょうどそれは、もともとは水夫の服であったセーラー服が日本に来ると変なものになり、フェミニズム活動家であったブルマー夫人が発明したブルマも日本に来ると変なものになり、メイド服も何かまた微妙に変なものになるのと同じようなものだろうか?
『The End』に登場する天使も、むしろ作中で実在感を持っているのは、天使そのものというよりその翼である。ちょうど主人や館がなくても成立する日本の「メイド」と同じように、ここでの天使の翼は、ほとんど天使そのものの存在を必要としないかのようである。背中から生える翼、先端から腐っていく翼、床に降り積もる翼の残骸…と翼のイメージは作中のあちこちに氾濫している。
しかし、これは作者が天使フェチ(あるいは翼フェチ)であるためではないと思う。おそらく、作者のフェティッシュの対象は別にあり、翼はその対象のメッセンジャーとして、こうも作中に氾濫しているとおぼしい。つまり、この『The End』という作品では、天使は(あるいは天使の翼は)、なんらかのメッセージを伝えるメッセンジャーという、実に天使本来の役割を果たしているのだ。
では、この天使は、どういうものを伝えるメッセンジャーなのだろうか? ここで唐突に思い出すのは、アンドレ・ブルトン『黒いユーモア選集』ISBN:4772001646、グザヴィエ・フォルヌレ(元祖ひきこもりみたいなフランスの作家。ひきこもったまま75歳の生涯を終えたらし)の次の箴言である。

ホテルの時間は、鳥のない翼だ。

拙豚は今まで、ホテルで一人で泊まっていて何もやることがないときの所在無い感じ、その空白感を「鳥のない翼」と表現したのかと思っていた。しかしその読みは甘かったようである。ここは文字通り、一切の解釈を廃して、時間=鳥のない翼と読むべきだろう。羽ばたくにもかかわらず進まない翼は、なにやらマクタガート風の「非実在の時間」と通底しているようではないか。