『地獄の門』


 

訳者解説によれば、作者モーリス・ルヴェルは何百もの短篇を書きながら、多くは新聞に掲載されたきりで、生前は二冊しか短篇集が出なかったという。なんだかジャック・リッチーみたいですね、作風は大違いだけれど。ともあれ読み捨てられたはずだったそんな文章が、極東の島国で丹念に拾い集められ一世紀をへて出版されるとは、作者も墓の下で驚いているのではあるまいか。小説というものの不思議な性質に思いをいたさずにはおれない。

「雄鶏は鳴いた」みたいなシャープな落ちのついた作品も中にはあるが、多くは何らかの事件が語られるだけで、そして語られたきりでそのまま終わる。大時計とか黒眼鏡とか古井戸とか、さりげないけれど効果的なオブジェが中心に据えられて印象を鮮やかにしている。

語られるのはおもに不幸で無気力で、運命のなすがままに翻弄される人たちである。その点では日本の私小説とか心境小説とかいったものに似ている。たとえば芥川の「トロッコ」など「校正の朱筆を握っている」うんぬんという最終パラグラフさえなければ、そのままルヴェルの世界といっていいくらいだ。創元推理文庫版『夜鳥』が何度も版を重ねたように日本で愛好される訳はそこにもあるのかもしれない。

ただ私小説などと違うのは語られるのが異常な事件というところだ。しかしそれにもかかわらず、「それがどうかしましたか? しょせんこうなるしかなかったんですよ」みたいな感じで、それこそ私小説風に淡々と語られる。この淡々と語るところに独自の小説技巧があることは注目すべきだと思う。それは「アア諸君、なんというおそろしいことでありましょう」とかそういうものの対極にあるものだ。