鏡と翻訳は忌まわしい

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 ひとつ前の記事で彼自らが語っているように、ノーマン・トマス・ディ・ジョヴァンニのボルヘス英訳はあまり評判がよくない。原文にあまり忠実ではなく、勝手に表現を変えたりしているというのだ。ところがボルヘス自身はそれを気に入っていたらしい。なぜだろう。

 『記憶の図書館』を翻訳という形で精読することによって、その訳がなんとなくわかったような気になった。『記憶の図書館』のあるところで、ボルヘスはピタゴラスと弟子について語っている。書いたものを何も残さなかったピタゴラスの教えは、弟子たちによって口伝で語り伝えられた。だがその際弟子たちは、「師はこう言った」と言いながらも師の教えに自分の考えを足し、そのことによって師の教えをいわば分岐させていたという。

 この分岐 (bifurcar) はボルヘスの思考法を語るうえでのキーワードといえるものだ。先に触れた今福氏の本でも、一章を割いてこの問題を扱っている。いっぽうボルヘスにとって複製は忌まわしいものであった。どこかでボルヘスは自分の作品のドイツ語訳はあまりに原文に忠実だからよくないと語っていた。原文そっくりの翻訳は、おそらくボルヘスには鏡のように忌まわしかったのだろう。ディ・ジョヴァンニの英訳のように原文を分岐あるいは発展させたもののほうが好ましく思えたのではないか。なんだかそんな気がする。