読ホリディ

 

 
いま書いているペルッツ新企画のあとがきで『都筑道夫の読ホリデイ』を参照する必要が出てきて手にとったのが運の尽き、その面白さに引きずりこまれてたちまち上下巻を読破、あとがきは一向にはかどらなくなってしまった。この本を編集された小森収氏も書いているように、昨今の出版事情の中でこの超長期連載を一本残らず収録して本にするのは大英断だったと思う。版元のフリースタイルに満腔の感謝をささげたい。小口の黄色が本家ポケミス以上に昔のポケミスの雰囲気を醸しているのもいい。

『読ホリデイ』というダジャレは相当にくだらない。むかしのブログ日記に「日記い・ぽーたー」というのがあったけれど、しょうもないダジャレという点ではいい勝負だと思う。ああそういえば『ロバート本』とか『デビッド100コラム』とかいうタイトルの本も昔あった。世にしょうもないダジャレタイトルの種はつきまじ、というところか。

だがそれが読者をくつろがせる効果を持っている。たとえばこれが『都筑道夫ミステリ時評』といったようなこちたきタイトルだったら何もかもだいなしだ。
 
この『読ホリデイ』は今まで何度くりかえして読んだかわからないが、何度読んでも興趣尽きない本である。似たような趣向の長期連載に佐野洋の『推理日記』があるけれど、あれはまあ忌憚なく言えば面白くて啓発されるのは最初の三冊か四冊くらいで、あとはもうマンネリに次ぐマンネリ、生きる化石にしかすぎない。だから読者もマンネリで読むしかない。何より著者のミステリに対する切り口が全然変わっていないのがつらい。一定のモノサシを持った審判官としてミステリに対峙しているといえるかもしれない。

それに比べると『読ホリディ』は著者がミステリの変遷に柔軟に対応し、それに応じて評価軸を変えているさまが読み取れる。おこがましい言葉をあえて使えば、ミステリの成長にともない都筑道夫の目も成長しているようなのだ。ここで見られる都筑の目は、もはや『黄色い部屋はいかに改装されたか』に現れている都筑の目ではない。またこの本上下二冊だけをとっても、十年以上の時間の流れによる著者のミステリ感の変化がうかがえる(時間の流れの中にはもちろん著者の筆力の衰えという好ましからざる要素もあるけれど)。
 
残念なのはハヤカワミステリ文庫にせよ創元推理文庫にせよ、都筑が推奨しているミステリの大半が今では入手不可能なことだ。それらの本を、ハヤカワでも創元でもいいから、「都筑道夫推奨の十冊(あるいは五冊でもいい)!」として一斉に重版すればある程度の話題は呼ぶと思うのだがどうだろう。