無神論者の聖書


 
 
もう三十年以上も昔の話になるけれど、ある日曜日の朝、クリスチャンの友人に誘われて教会に説教を聞きに行ったことがある。教会で説教を聞いたというのは後にも先にもそのときだけである。

説教壇に立った牧師さんが聖書の一節を引用しそれに元に講話を述べていた。その後岩波文庫で出た『エックハルト説教集』を開いてみたら説教のスタイルが同じだったので驚いた。八百年も同じスタイルを保持し、あまつさえそれを東洋の島国にまで持ってくるとは大したもんだと感じ入った。

そんなことを懐かしく思い出したというのは他でもない。浅羽通明さんの久方ぶりの新刊『星新一の思想』を開いてみたら、その叙述のスタイルがやはり日曜礼拝をほうふつとさせるものだったからだ。星新一のなんらかの作品を引き合いに出し、それを何らかの形で今の生活に結びつけるという、説教風の考察が披露される。そんなスタイルが星新一のさまざまな作品を素材にして手を変え品を変え続けられる。

つまり浅羽さんは牧師が聖書を読んでコメントするように星新一全作品を読んでコメントしている。

ところどころで「預言者の預言が的中した!」みたいな表現もあって、いやこれもまさに牧師と聖書だよなあという感を深める。

聖書の各部分が成立時期も記述内容もバラバラでありながら、全体で未統一のままある種の存在感を出しているように、星新一全作品にも「星新一全作品」という以外にない一つにまとまった存在感がある。こんなことは他の作家にはあまりないことだと思う。ことに星新一くらいに大量の作品を残している人には。

おおすると星新一全作品とは無神論者の聖書のごときものであったのか。この本も毎週日曜に少しずつ読むのがいいかもしれない。

 ところで浅羽さんの妹さんのツイッターが途切れて久しいがどうしたんだろう。ふるほんどらねこ堂のメイドをやっているという噂もあるけど本当なのだろうか。いやそもそもなぜ古書店にメイドがいるのだろう。幻想文学界隈は怪しいことだらけである。