エラリーより名探偵


 
『記憶の図書館』は発売日を待つだけになり、もう一つの長篇(「君は貴族社会を生き抜くことができるか?」みたいな話)のほうも訳了したので、ヤレヤレとほっとして ずっと積読にしていた『エラリー・クイーン 創作の秘密』を手にとった。

とりあえず『九尾の猫』関連のところだけ読んだ。というのはこの作品、世評は高いものの、どう読んでいいかわからぬ不思議な作品であったからだ。『ドグラ・マグラ』が奇書であるのと同じ意味でこの長篇も奇書である気がする。成功作か失敗作かよくわからないところも『ドグラ・マグラ』に似ている。

1948年6月30日から8月13日にいたるまでの往復書簡を読んでこの作品の狙いが少しわかった。つまりダネイは消去法によって犯人を決定する従来のエラリーの推理方法をあきたらなく思い、巨勢博士風の「心理の足跡」による推理をエラリーにさせようとしていたらしい。ところがそれに基づいて組み立てたシノプシスがリーからダメ出しをくらってしまう。8月4日や8月9日付けのダネイ宛書簡で述べられるリーの立論は作中のエラリーよりも名探偵感がある。

「心理の足跡」というのを言い換えれば、探偵小説の形式で人間精神の奥に入ろうとしているといってもいい。それがダネイの狙いだったかもしれない。ところがこの作品の場合その手法がちょっと無理筋かもしれないと思うのは、犯人が(あえていえば)狂人だったからだ。狂人の心理の道筋をたどることは常人にはむずかしい。そして犯人の身近にいるある人物も、ある意味異常人であり、常識では推し量れないような心理の人であることが問題をさらに難しくしている。

狂人(あるいは異常人)とはいかなるものかというのは、各人がおのれの内なる狂気(あるいは異常性)に照らし合わせなければ了解できないものだろうと思う。だから人によって開きがあるのは当然だろう。その了解がダネイとリーとで(ちょうど正木教授と若林教授のように)違うと、ダネイには自然に見える心理が、リーには不自然に見えるということも起こってくるだろう。ある書簡でリーは、僕のほうが君より精神医学の知識があると、(今様に言えば)マウントを取ろうとしているが、まあそれほどリーにはダネイのプロットが不自然に見えたのだろう。

結局『九尾の猫』が成功作か失敗作かはいまだによくわからない。だがもしこの往復書簡で見られるダネイとリーとの論争が、正木教授と若林教授との対決みたいな形で、そっくりそのまま作中に取り入れられていたなら、つまりプロットを故意に曖昧にして、両論併記みたいな形で最終的な判断が読者に委ねられていたら、とてつもない傑作になったかもしれないという気はする。そのほうが恐怖感もより際立っただろう。