いわゆる差別語

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翻訳をする上で、特に古い作品を翻訳する上で、いわゆる差別語の問題は避けて通れない。わたし自身はそういうものが出てきたときは、原則として穏当な語に言い換えることにしている。すなわち大勢順応主義である。スッタニパータというありがたいお経にも書いてある。「イソギンチャクの角のように付和雷同で歩め」と(記憶による引用なので違っているかもしれない)。

「ものは言いよう」というのは確かにある。たとえば「覗き」というと忌まわしい感じだが、これを「屋根裏の散歩者」と言い換えれば、なにやら詩的な雰囲気さえただよってくる(まあやっていることは一緒なのだが)。「あまりにも明快な言い回しでは、星が月夜に色褪せるように、明察はその光輝を失う」と『文学におけるマニエリスム』にも書いてあるではないか。

さて、わたしの訳すものには、何の因果か、(英語でいえば)hunchbackという言葉がたびたび出てくる。初の翻訳書である『最後の審判の巨匠』からして、主要登場人物の一人がhunchbackだった。

ときどき本のおしまいのほうに、「著者自身に差別的意図はなく、また著者がすでに故人である等の事情に鑑み……」などと書いてあるが、ことhunchbackに関していえば、特に怪奇小説の場合、著者に差別的意図がなかったとは考えがたい。もっと言えば、単にグロテスクな雰囲気を出したいだけのためにhunchbackの人を登場させるのはやめてほしいなあと思うのだ。

ということで『最後の審判の巨匠』の場合は、hunchback(にあたるドイツ語)は自主的に「猫背」と訳した。こう変えても作品の価値は寸毫も揺らぐまいと確信してのことである。

なんでこんなことを書いているかというと、今度出る『イヴ』にもまたまたhunchbackが出てくるのだ。よほどこの言葉に憑かれているとしか思えない。しかも『イヴ』の場合、「猫背」みたいな滑稽感のある言葉は場面的にふさわしくない。はてさてどうしたものか。気絶怪絶また壮絶!