峯太郎ホームズの美点その他

 山中峯太郎訳のホームズについては前にも書いたが、いまだその魅力から離れられず、とうとう古本屋でポプラ社版の安いのを見つけたら買うようにまでなった。病膏肓に入ったというべきか。フッフッフー。

 峯太郎訳はたしかに超訳・怪訳には違いないのだが、わたしの見たかぎりでいえば、他のどの訳にもない美点がある。何かというと、植民地帝国としてのイギリスの姿を巧まずして浮かび上がらせている点である。

 峯太郎自身にも大陸の植民地というものに対しある種のセンスがあって、無意識のうちにそれが反映されているのかもしれない。あるいは平山氏が注で詳細に指摘しているように、原作の細部をあえて改変し、リアリティをいわば補強していることもあずかって力あるのかもしれない(たとえばある作品では、原文の「下士官」を故意に「将校」と変えている)。

 たとえば「まだらの紐」や「謎の手品師(曲がった男)」で出てくる動物は、他の人の訳だと唐突に現れる感を免れないが、峯太郎訳だとそれが実に自然で、あたかも(変なたとえだが)水を得た魚のように出現する。「怪盗の宝(四つの署名)」のテムズ川でのシーンにしても然り。ああイギリスは島国だけれど、ちゃんと蛮地とつながっているのだなあという感を深くするのである。なるほどコナン・ドイル(1859 – 1930)はキップリング(1865 - 1936)の同時代人であったなあとあらためて気づいたりもする。

 キップリングといえば、これまた実に不思議な作家である。傑作「彼等」をはじめとして、いくつもの小説が謎めいた仄めかしのままに終わり、解釈は読者に委ねられる。そして読者の解釈はしばしば互いに一致しない。たとえば「バベルの図書館」に入っている「祈願の御堂」だが、これについて訳者の土岐恒二氏は月報で、「……と彼女は信じようとしており」とか「……見いだそうとしている」という表現を使い、いわばヒロインの主観が現実をねじまげているように語っている。しかしボルヘスの読みはおそらくそうではない。なぜかというと、もし土岐氏の解釈が正しければ、これは幻想小説でなくなり、したがってボルヘスが幻想小説アンソロジーである「バベルの図書館」に入れるはずもなくなるからである。

 ボルヘスが「おそらく一番心が動かされる」「その特徴のひとつは作中で奇跡が起こることである」と評した「園丁」も、やはり不思議な話である。物語のラストで「奇跡が起こる」のは間違いない。しかし土岐氏がヒロインを「未婚の母」と解釈するのはどんなものだろう。これだとせっかくの天上的なニュアンスがたちまち下世話なものに堕してしまわないか。わたしとしては「あなたの息子さん」というセリフは、あくまで象徴としての息子のことだと取りたい。