絢子の幻覚

 

 
今提出されている高校国語の改定案によると、「論理国語」と「文学国語」というのが新たにできるそうだ。なにやら文学のほうの人がひそかに結集して、抜打座談会とかやりそうな雰囲気になってきた。

「この頃は特に論理国語を国語の主流にするというような、何か意識的な感じがあるようですね」「『ような感じ』どころではなく、私は常に論理国語が国語の本流だと、明瞭に書いている」というような応酬が、そのうち行なわれるのではなかろうか。


そういう時勢のなかで、折りしも(?)終戦直後の「宝石」で本格派の一翼を担っていた岩田賛の作品集が出版された。こんなマイナーな作家でもそれなりの読者が見込まれるのだから、探偵小説愛好家の層は厚いものだと思う。だが短篇「絢子の幻覚」によって、天城一や山沢晴雄といった癖のある作家たちに衝撃を与えたという点ひとつをとっても、岩田賛はマイナーといえど忘れてはならない人だと思う。


だがまずはベリスフォードの「のど斬り農場」の話からはじめよう。この短篇の特異性は、以前触れたように、「語り手が途中で逃げる」ところにある。自分も非常な怖がりなので、この語り手の気持ちは実によくわかる。

たとえば自分が「インスマウスの影」の語り手の立場に置かれたとしよう。もしそうだとしたら、とてもとてもギルマン・ハウスになんか泊まる気にはなれない。バスが故障してたら徒歩ででもインスマウスから逃げるだろう。

だが怪奇小説の主人公というのは、本来そうであってはならないものだ。そんなことをしたら「インスマウスの影」は成りたたなくなってしまう。何かが起こるまでは語り手はインスマウスから離れてはならない。思えば怪奇小説の主人公というのも因果な商売ではあるが、そうでないと読者が納得しないのだからしかたがない。

ところが「のど斬り農場」の語り手は、開巻わずか七ページで話を放り出して逃げてしまう。「アッ逃げやがった!」と怪奇小説愛好家は思うだろう。「せっかく凄惨なシーンが見たかったのに!」「『のど斬り農場』と言うからには喉を切られなきゃダメじゃないか!」――そんな声が聞こえてきそうな気もする。――しかしこの短篇が名作として今に語り継がれている一因は、この「途中で逃げる」話術のテクニックにあるのだと思う。


さて岩田賛の「絢子の幻覚」であるが、この作品も「のど斬り農場」と同じく、「途中で放り出す」ということがミソになっている。

このアイデアは発表当時、ごく一部にではあるが非常なセンセーションを巻き起こしたらしい。あの変な試みをたくさんした天城一さえもが賞讃しつつこんな弱音を吐いている。

これは非凡な着想ですが、リアライズするためには、これほど難しい着想はめったにあるものではありません。私も幾度か考えてみましたが、作品に至るまで具体化できたものはひとつもありませんでしたといえば、理解していただけるでしょうか。(別冊シャレード67号『山沢晴雄特集6』から引用)

 
だがこの着想を山沢晴雄は短篇「仮面」で自家薬籠中のものとした。「絢子の幻覚」ではやや不完全燃焼気味だったアイデアが見事に生かされている真の傑作といっていいだろう。(新本格以降では『貴族探偵』のなかの一篇に同趣向のものがある)

のちに山沢はこの「仮面」を書き替えて「扉」という短篇にしているが、これはまったくいただけない。無理やり盛り込まれた小説的興趣が作品を台無しにしている。こういう着想は、剥き出しの骨組みだけで提示されたときに、もっとも感銘を与えるものだ。「仮面」で採用された「ですます」調の雲をつかむような浮世離れした語り口も、内容に実によくマッチしている。