対決の書

 
【「新青年」版】黒死館殺人事件は刊行一週間足らずで在庫が底をつき各書店で品切れとなり、版元はあわてて重版に踏み切ったそうだ。あの価格にしてこの売れ行きなのだから、よほど皆が待ち望んでいた本だったのだろう。

再版では誤植が少なくとも一か所直っているそうだから情報元、今から買う人は再版を買ったほうがいいかもしれない。

ところで現代において黒死館を語る場合、今から七年前に出た『綺想宮殺人事件』という小説の存在を忘れてはならないと思う。

『翼ある闇』『アベラシオン』『ウロボロスの純正音律』など(他にもあると思うけれど今出てこない)、新本格以降に絞っても何冊も黒死館にインスパイアされた小説があるなかで、なぜこの本が屹立しているかというと、黒死館と真摯に対決しているのは(自分の知るかぎり)この一冊だけだからだ。

「【「新青年」版】黒死館殺人事件」が注釈という手段による黒死館との対決である一方で、この本は小説という手段による対決といえる。

たとえば今黒死館を建てるとすると、インターネットの存在は無視できない。ウェブの中では物理法則を無視した奇想がまかり通るし、超論理で相手を打ち負かそうとする人があちこちにいるし、引用は自分の都合がいいようにしばしば歪められるし、あとはイメジャリの際限ない氾濫とかあって、いわばウェブ自体が稀薄で広大な虚の黒死館と化している。

そんな中でいわば実の黒死館は建てられるのだろうか。そしてその館のなかで法水はどんなふうに振舞ったらいいのだろう。この小説はそれにひとつの回答を与えている。

この対決という作者の姿勢は終わり近くで展開される後期クイーン的問題論でも鮮明だと思う。後期クイーン的問題とは、私見によれば、(間違ってるかもしれないが)「神のごとき名探偵」から「神のごとき名犯人(=謎のかけ手)」へと探偵小説を見る視点を転換したものだ。

だが『綺想宮』の作者はどちらを神と祭り上げるのもよしとしない。あくまで探偵と犯人は対等の立場で対決せねばならないものなのだ。

ただこの本は正統的推理小説愛好家を辟易させるような毒舌に満ちているため、今のところは文庫化はおろか再版すらも難しいかもしれない。でも数十年後には奇書として珍重されることは間違いないと思う。