江ノ島から鎌倉へ

今見てるゲラにジェルジンスキー(ソヴィエトGPUの親玉)が出てきたので、二十年かそれ以上ぶりに林達夫の「共産主義的人間」を引っ張り出して読んでいる。このエッセイの終わりの方にもやはりジェルジンスキーが出てくるからだ。

しかしこの平凡社版著作集全六巻の編集ぶりはどうしようもないねえ。ご本人がわざわざ、「私はこれらの文章でその発想の場の地形や風景形態や空模様の方を発想されたものそのものよりも重く見ているからである」と書いているのに、そうした地形や風景形態や空模様におかまいなく各単行本をずたずたにして、重い思想的文章も軽い時事的文章もまぜこぜにして、「発想されたものそのもの」別に分冊にするというのは、なんというか悪意さえ感じさせる所業である。

やはり林達夫を読むならすべからく中公文庫あるいは元の単行本につくべしである。今なら古本屋の店先に二百円か三百円くらいで売っている。盛林堂なら百円である。
 

 
とつい偉そうな口を叩いてしまったが、先に「二十年かそれ以上ぶりに」と書いたとおり、私自身は林達夫の良い読者では全然ない。聖アンナの足元に転がるのが胎盤だろうが石ころだろうが気にしないし、仕立屋が古着の周りをぐるぐる回っていても、それはそれで面白いのではないかと思うような人間である。

あと「反語的精神」という文章も面白い。ここでは清水義範の「深夜の弁明」にはるかに先がけて、編集者にあてて、依頼された原稿が書けない言い訳が綿々と綴られている。しかし最後にいたって、それまでずっと「ですます」体で情理を尽くして書かれてきた文章が、唐突にぶっきらぼうにこう締めくくられる。「どうもまだ頭が少しへんなようだ」

finishing strokeとは、こういうもののことをいうのだろうか。これを読んだ編集者の人はどう思ったろう。「そうか、頭がまだ少し変なのなら、原稿もらえなくても仕方ないな」と思っただろうか。

今林達夫を読むとさすがに昔読んだときよりはよくわかる。でもそれは必ずしも嬉しいことではない。「無抵抗主義者」や「デカルトのポリティーク」とか「歴史の暮方」とか、そしてもちろん「三木清の思い出」とかがしみじみ読めるというのは不幸な時代には違いない。江ノ島から鎌倉に回って絵葉書を出したなんて話は背筋が寒くなる。「何言ってるのかひとつもわからないねえ」などと思っていた昔が懐かしい。