リフレクトする病


何を隠そう、拙訳『探偵ダゴベルトの功績と冒険』の解説は、高山宏『殺す・集める・読む』の影響を受けて書かれたものだ。だからこの本を一度は買って読んだことは確かだ。
だが今、その内容は揮発したように頭から消えている。おまけに本までどこかに行ってしまった。だから先日の日記は内容を確認せずおぼろな感じだけで書いたものだ。
それではまずいような気もするので、もう一度読もうとこの間から探しているのだが、いまだに見つかっていない。その代わり買ったまま放ってあった小谷野敦『このミステリーがひどい!』が出てきた。

この本の最初のほうに「だが、私を決定的にミステリー嫌いにしたのは、[……]アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』である」と書いてある。これには思わず膝を打った! いや、アクロイド自体は屈指の名作だと思うけれど、自分にも似たような体験があったのを思い出したから。
それは中二のとき、級友から借りて読んだ本だった。その小説の結末近くの、密室の謎解きをする場面で、名探偵がこんなことを言っていた。

……雨戸をあけておいたところで、それなんの意味をなさんや。ええいっ、いっそ密室の殺人にしてしまえ――と、思ったかどうかわかりませんが、それが雨戸をあけておかなかった原因だろうと思うのです。


「この人は何を言ってるのだろう?」と当時は思ったものだ。「ええい、いっそ」では論理がぜんぜん通ってない。こんな勢いというか乗りというかやっつけ仕事みたいな感じで、はたして人は密室をつくるものなのか。 
そのときの違和感はいまだに頭のどこかに残っている。もし当時批判精神がもう少し強かったら、あの時点でミステリは卒業していたかもしれない。実に危ういところであった。
幸いにして優柔不断だったので当時のクラスメートO君の感化もあってずるずるミステリを読み続け、そしていつしか四十年の歳月が過ぎ、ついには翻訳までするようになるのだから、思い返すだにうたた感慨に堪えない。

そういえば澁澤龍彦が何かのエッセイで、自分が異性愛者なのはたまたまにすぎなくて、きっかけさえあれば同性愛者になっていてもおかしくはなかったという趣旨のことを書いていた。人の根源にあるともいえる性的嗜好さえそうしたきっかけに左右されるのなら、ミステリごときへの嗜好はどんな些細な偶然に左右されてもおかしくはないのかもしれない。

今では焼きが回ったのか病膏肓に入ったのかそれとも中毒症状を呈しているのか、この名探偵の言葉もそれほど変とは思わないようになってしまった。ただ自分が同じ立場に立たされたら、「ええいいっそ密室に」とは考えず、とりあえず雨戸は開けておくだろう。

乱歩がこの作品を一応評価しながらも留保(というか端的にいえばケチ)をつけたことはよく知られている。作者への嫉妬がその底にあるという説もある。そうかもしれない。だが乱歩の慧眼は、この作品に潜む「病」を見抜いたのではなかろうか。留保はそのせいではなかろうか。
だが後代のミステリはその病に突破口を見出し、さらなる発展を遂げ豊饒性を獲得するにいたった。

その病とは何か。『殺す・集める・読む』に書いてあったような気がするのだけれど贋の記憶かもしれない。贋の記憶かもしれないが、本が出てこないので、あやふやなまま書くと、ミステリは世の常の小説とは違って、本の外側に読者がいるばかりでなく、本の中にも読者がいる(すなわち事件内容を読者より正確に「読む」ホームズ)。本の外に作者がいるばかりでなく、本の中にも作者がいる(すなわち記述者ワトソン)。この合わせ鏡みたいな妙な構造が、高山御大の言葉でいえば「リフレクトする病」をひき起こすのだ。
つまり先の作品の場合は、探偵小説のなかに探偵小説マニアが登場することが、すさまじいマニエリスムを起こす癌となっている。アクロイドの場合も、やはりリフレクトする病が作品全体を侵していて、それが人を嫌悪させるのだと思う*1。犯人の設定がフェアとかアンフェアとかいわれるが、たぶん問題はそこにはない。
(『殺す・集める・読む』が無事発掘されたらまた続きを書くかもしれません)

*1:【3/26追記】小林秀雄も乱歩との対談でアクロイドのこの〈病〉を怒っている。「……手記を書くという理由が全然わからない。でたらめも極まっているな。あそこまで行っては探偵小説の堕落だな。……あれで怒らなかったらよほど常識がない人だね」――いやでもそんなこと言ったら、ワトソンだってどうしてホームズの事件簿を書くのか。その理由だって全然わからない。