ダンセイニ卿書評集

文学フリマ京都からだいぶ日がたってしまいました。いまさらではありますがいらしてくださった皆様、どうもありがとうございました。次は4月16日金沢でお目にかかりましょう。5月7日の文フリ東京は都合がつかず残念ながら欠席です。

さて文フリ京都に話を戻して、そこで買ってよかったと思ったものの筆頭は西方猫耳教会のスペースにあったこの『ダンセイニ卿書評集』。『日本の昔話と伝説』(リチャード・ゴードン・スミス)『ウィルヘルミア女王の島々』(ヴァイオレット・クリフトン)『エゴイスト』(メレディス)『夢の丘』(マッケン)の四冊が評されている。

このなかで目を引くのはなんといっても『夢の丘』。あのダンセイニ卿があのマッケンをどう評するのか、それだけでも興味津々であったけれども、驚いたのは卿が絶賛に近い高評価を与えていた点だ。

ここで私事を語って申し訳ないが、わたしはマッケンという作家を愛する点では人後に落ちないと思うけれど、『夢の丘』という作品に対する評価は微妙である。前半はすばらしいが、第六章でわけがわからなくなり、最終章では不細工としかいいようのない終わりかたをするから。

マッケンはこれを書くことによって、というよりむしろ、この小説をこういうエンディングにすることによって、みずからの最良の資質を扼殺したのではなかろうか。その証拠に、これ以降の作品では初期作品のエクスタシーの高みに達することは二度となかったではないか。

その無惨さは足穂の『弥勒』と比べるといっそう鮮やかになる。両者とも田舎で夢見る少年期を過ごした文学志望者が都会に出て貧困に苦しむ、というストーリーのアウトラインは同じだけれど、足穂のほうのエンディングはおそろしくハイパーな、転機の物語を締めくくるにふさわしいものになっている。

ところが、ところが、卿はこの『夢の丘』のラストシーンを「勝利」と言ってはばからない。「……それでもこの作品は決して絶望の所産物ではない。むしろ絶望に対する勝利である。……それは厳しい現実に対して想像……がなした勝利である。」

だがどうしてそれが「勝利」なのか、正直なところうまく理解できない。勝利という言葉からは谷崎の「金と銀」が連想されるが、そういう意味での勝利ではおそらくなかろう。ただなんとなく感じるのだが、ダンセイニ卿とわたしでは死生観が根本的に異なっているのではないか。わたしは「死んだらおしまいだろう!」と思うが、卿は必ずしもそう思ってはいないのかもしれない。

ともあれ『夢の丘』への共感をこれほど熱く語った文章を読めるのはありがたい。願わくば「ぺガーナ・ロスト」はこれにとどまらず、ダンセイニ卿の書評をもっと集成してくださいますよう。