乗っ取られた作者


このところこの日記の更新頻度が高いので不審に思われている方もおられるかもしれない。ふおふおふお。実はとある難物の翻訳が終わったところなのです。正確にいえばあと200枚分くらい残っているが、まあ最難関は突破したとみてよい。没にならないかぎり来年中には出ると思います。

この小説は、作者が超自然的存在に乗り移られて物語を書いているという趣向になっている。ドーキー・アーカイヴで出る予定の『誰がスティーヴィー・クライを造ったか?』もやはりそんな感じらしいけれどもそれとは別物。
たとえば物語の途中で唐突に「お前に教えてやる」というような文章が出てくる。この「お前」は、小説中の人物ではなく、読者でもない。ここでいう「お前」は、実にこの小説の作者だ。つまり作者に乗り移った超自然の存在が、乗り移られた作者に向けて「お前」と言っている。小説の中で展開しているストーリーとは独立に、超自然のものが作者に向けて言っているのだ。ちなみに作者が物語に登場するのは「前書き」のところだけ。

ところで作者の人は前書きで、「超自然の存在に乗っ取られて書いたので支離滅裂だけど許してね(大意)」みたいなことを書いているのだけれど、これのマネをして訳者あとがきで、「作者が超自然の存在に乗っ取られて書いてるので訳文も支離滅裂だけど許してね(大意)」と書いて許されるものだろうか。
正直難しいところである。許してもらえるかどうかわからない。たとえば以前取り上げた"yes, yes, and yes"問題を例にあげよう。
都筑道夫が遭遇したケースは"yes, yes, and yes"にいたるシチュエーションが不明だから、今新しく勝手に作るとして、ええと、そうそう、ある女性が、憎からず思っている男からプロポーズされて、"yes, yes, and yes!"と承諾したとしよう。
これをもし「そうだ、そうだ、そして、そうだ」と訳したら、いくら訳者あとがきで「この部分は作者が超自然的なものに乗り移られているから許してね」と書いても、けして読者は許してくれないだろう。いやその前に、校閲ガールが許してくれないだろう。この箇所で超自然の存在に乗り移られているのは作者ではなく訳者なのは、原文を見ずとも明らかだから。

ということでこの作品の場合、支離滅裂な部分は極力原作者のほうに転嫁するかたちで訳すことが要請される。そのとき非常に参考になったのは若島正氏の「海を失った男」の訳しぶりであった。つまり「わかるところはわかるように、わからないところはわからないように」の訳しわけがこの訳文では水際立っていると思う。