塚本邦雄展図録に寄せて

 「玲瓏の会」の物部鳥奈さんから塚本邦雄展図録をいただいた。ありがとうございます。物部さんは同展の企画委員の一人で、この図録で年譜を担当。わたしは塚本を日常的に読む人間ではないけれど、こうしたものを目にすると一旦は箱のなかにいれた塚本本を取り出しあちこち拾って読み、つい物思いにふけってしまう。

 世界は言葉でできている、と誰かが言ったそうだ。わたしはそうは思わない。だが天国は言葉でできていると思う。おそらく言葉だけでできていると思う。だから聖書の一語一語に異様にこだわるカバリストたちの営みは、聖書を信じるかどうかはともかくとして、あるいは手続き的に正しいかどうかはともかくとして、発想としてはそれほど誤っていないのではないか。それは語のうちに天上に通ずるもののあることを確信する者の行為であり、同時に〈天国などないかもしれない〉というニヒリズムと表裏一体のものだ。

 しからば塚本の言葉で天国はできているのかということになると、これははなはだ疑問であって、むしろ天国から落とされたもの、「堕天」というのがふさわしいように思う。冒瀆の気配ただよう隕石。そこが塚本の魅力の本質ではないか。

 学識に溢れ、おそらくは神を意識することは共通でも、日夏や鷲巣とはその点でまったく異なる。彼ら二人の詩は地上から天への祈りであるが、塚本の場合は逆に天から落ちてくる。

 あるいはその百科全書的知識。中井英夫と塚本邦雄は、おびただしい書簡の往復を通して、互いに大きく影響しあったというが、これはどちらからどちらへの影響なのだろう。詩と百科事典とは、もともとはひとつのものであったはずだ――ある種の人たちは、先験的にそう確信する。ノヴァーリスがそうだった。マラルメもそうだった。コールリッジの中絶した百科事典。