水のなかの水のように


待望の光文社古典新訳文庫版『失われた時を求めて』の新刊がでた。
高遠弘美氏の訳は〈理屈っぽさ〉が前面に出ているのがうれしい。ミステリの終盤における名探偵の謎解きのような、勘所をぴたりぴたりと次々押さえていく感じだ。文飾に逃げない実直な訳しぶりは、すくなくともミステリ好きの琴線にはいちばん触れる。
それはまた訳文が定着性に優れているともいえる。というのも、当然のことながらここで繰られる論理は犯人を追い詰める論理ではない。論理は縺れ合い、ある方向に流れたかと思うとあらぬ方向に逸れていく、と思ったらまた揺り返しのように戻ってくる。それは夢のなかの思念に似ている。目が覚めたとたんに跡形もなく消えてしまう夢のなかの思念に。
この本はその軌跡を文章に定着している。先に定着性といったのはそのことだ。本来なら(ボルヘスの表現を借りれば)水のなかの水としてそのまま消えるはずの、羈絆を外れた波のたゆたいが、装幀家の手でマーブル模様となって定着されるように。

その意味で、たとえば吉田健一プルーストに負っているものがいかに大きいか、そのことが一番よくわかるのはたぶんこの高遠訳だろうと思う。あるいはこの訳文のおかげで吉田健一の特質がよりよく理解できるようになったのだろうか。そこらへんはニワトリと卵みたいな感じで正直どちらがどちらなのかよくわからないけれど。

さるにても吉田健一! プルーストという高峰を登攀する道標として、日本語は吉田健一という大いなる先達を持った。それはいくら感謝してもしきれるものではない。西脇順三郎や呉茂一の文体のおかげで遥かなギリシャを仰ぎ見られるようになったのと同じように。