蒐集と喪失と

この本はいい。まず訳文がいい。重訳というのは非難されがちだけれど、本書にかぎっては大成功していると思う。というのも、本書の文体のまれに見る清澄さは、この二重の濾過によってはじめて得られたものかもしれないから。

次に値段がいい。この世知辛い時勢に、薄い本とはいえ、海外文芸のハードカバーで税抜価格1600円とは、どこをどうすればひねりだせるのだろう。ともあれこの低価格は本書の良い意味での軽さ――無重力性――をひきたて、その魅力を倍加させる。2800円とかそういう鈍重な値段でなくて本当によかった!

ここに収められた物語からは、まるで星新一のある種の作品のように、地方色や時代色が入念に拭い去られている。スパムメールみたいなものさえ、その卑俗さを剥奪され、透明性を帯びている。その結果として立ち現われるのは日常の煩いから解放された非時間的な時間だ。現実には恩寵としてしか訪れないそうした時間が本書には溢れている。

セルビア――血腥い動乱と無縁でないその地名には、しかしどことなく静謐な感じがただよっている。「灰色の眼の女」からはじまる神西清の連作の記憶を呼び起こすからかもしれない。この連作の主人公はセルボ・クロアチア語を学んだ青年で、そのためJ国(ユーゴスラヴィア?)の商務館に勤め、事件らしい事件もない毎日を送る。

ところでコレクションという行為は、喪失感と表裏一体のものだ。一つにはコレクターは、何かが失われていると思えばこそ、その欠けているものを埋めようとするから。もう一つには、蒐集家というものは、えてして蒐集品以外は何も持っていないから。彼の蒐集は他のすべてを喪失したことを意味するから。