トモナリ化

 
 今訳しているのは一種のピカレスク小説なので、景気付けに中野好夫訳の「ヘンリー四世」やセリーヌの亡命三部作を読んでいる。

 伝説の雑誌「幻想文学」の古い号に、どなただったかが、「国書刊行会版セリーヌ全集の訳文は、下手に生田耕作に倣ったおかげで何ともしまらないものになってしまった」みたいな趣旨のことを書かれていた。だがすくなくとも高坂和彦氏の訳に関しては、これはあてはまらない。このような訳文でセリーヌが読めることを感謝したく思う。

 しかしけして訳文のせいではないと思うが、この後期三部作では読者との馴れ合いめいたものが感じられなくもない。コスミックな邪念が読者を震撼させる「世の果てへの旅」や「なしくずしの死」とは、読んでいるときの印象が微妙に異なるのだ。

 いやそれどころか、ともすれば竹本健治が『ウロボロスの偽書』で(作中の)友成純一を評した言が連想されさえする。「しかもそういう言葉に全く悪意や邪気がないところが彼の最大の美点で、コマッタちゃんがブリブリとダダをこねるのに似ていて、これが何とも愛苦しいのである」。百間でいえば「冥途」「旅順入城式」に対する中後期の諸作との関係みたいなものか。たとえば遺作「リゴドン」は、前フリとして、インタビューに来たジャーナリストを追っ払うシーンから始まってるのだが、これなんかはくすぐり一歩手前なんじゃないだろうか。

 ちなみに国書版セリーヌ全集はまだいくつかの巻が新刊で買える。あのすばらしい装訂の本が今となっては破格の安値(なにしろ『バンヴァートの阿房宮』とそれほど変わらない!)で買えるのだから、見逃す手はないと思う。