中井三景

レルネット=ホレーニア『両シチリア連隊』の刊行が9月12日に決まったらしいです。なにとぞよろしくお願いします。装丁もカッチョイイです。

この本の解説を書くために、久しぶりに中井英夫関連文献をザザザザと読んだ。むかし『中井英夫 虚実の間に生きた作家』という本が河出から出ていて、それに「中井英夫作品案内」を書かせてもらったときもガガガガと読んだものだ。あれは2007年の本だから7年ぶりということになる。『両シチリア連隊』の解説には使わなかったけれど、印象に残った3シーンを忘備としてここにメモするよ。

まずは「スーパー・エディター」安原顕氏の書評集『本など読むな、バカになる』に収録されている追悼文「長篇の約束を果たさず逝った中井英夫」より。

……酔うとしばしばぼくの手を握って話すのには、いささか閉口したことを覚えている。そういえば、その当時彼の住んでいた東松原の家に、郵送しておいた「ゲラ」をもらいに行った折、応接間の長椅子に座って待っていると、他にも椅子はいくらでもあるのに、彼はわざわざぼくの隣に坐り、「ゲラ」を手にしながら、「ここんとこだけどさあ」と言いながらいつの間にか身体をどんどん寄せてくるので、すこしずつ身体をずらしている内、とうとう、長椅子の端まで押し付けられるというコワーイ経験をしたこともあったっけ。

……いやはや……。安原氏の、あのアクの強い容貌を思い浮かべながら読むとある種の感慨を催さざるをえません。狩人のお兄さん……。

二番目は探偵小説研究会編著の「CRITICA」第8号に収録されている本多正一氏インタビュー「ハネギウス一世との邂逅」。ここには本多氏が中井英夫の助手になった顛末が書いてあります。

……その日、お宅までお送りして「よかったら住み込みで助手になってくれない」と頼まれたんです。
 当時いた助手さんが辞めたがっていて、引越しも控え、かなり困っていたようです。光栄には思いましたが、中井英夫の助手なんて務まるわけがないですから「しばらく考えさせてください」とその日は辞去しました。で、一週間後に電話をしたら「本多くん、きみ、電話をくれるのが遅いよ」と叱られまして、「もう僕といっしょに住むことになったからね」という顛末だったんです(笑)。

仮面ライダー電王に出てきた誰かの「〜してもいい? 答えは聞いてない!」みたいなノリですね。もし拙豚が[もう僕といっしょに住むことになったからね」と言われたとしたら、もちろん光栄は光栄なんだけど、たぶん腰を抜かして全速力で逃げると思う。果然と受けて立った本多氏には尊敬あるのみ。

三番目は『新青年』研究会による同人誌「『新青年』趣味」第XI号。この号は中井英夫/森下雨村特集で、そのなかで村上裕徳氏が回想「月蝕領・羽根木時代の思い出」を寄稿されている。村上氏は一時期、中井英夫のいわゆる「分身」田中貞夫の亡くなる日まで中井のアシスタントを勤めていた。この回想記はその日々を赤裸々に綴った110枚の巨編である。
どこを引用しようかと思ったけれど、いやこれは部分的に抜き出して引用などできるものではない。心ある中井ファンはぜひ全文に目を通していただきたいと思う。

代わりといってはなんだが、名アシスタントとして知られ、『人外境通信』の第三話「呼び名」に出てくる青年のモデルともいわれる金沢裕史氏を描写したくだりをちょっと紹介。

……中井英夫が長文の乱歩論(これは私も力作だと感じる)を書いた時も、「卒論みたいですね」と評して怒りを買ったようだが、そうしたときも畏れ入りもせずにパイプを咥え、ソファーに長身を預けてチェシャ猫みたいな薄笑い(唇の両端が少し上がるのだ)を浮かべていたに違いない。ただし中井英夫日記にあるような、彼が「美青年」であるかどうかについては、裏も表も知る私には信じがたく、読者は誤解なきよう願いたい。プライドは高いが処世に長け、中庸を最善とする性格で、温厚にしてシタタカ、口は悪いが陰険でなく、執着心の少ない楽観主義者であったから、中井家のアシスタントが長く勤まったのである。薄給ではあったが住み込みであり、家計の管理までしながら、最大限の贅沢を主人にさせるだけの度量と、金銭欲のなさが金沢にあった。それでいて贅沢に付き合えるセンスも持っていた。……

ついつい長く引用してしまった。「情理を尽くした」というのはこういう文章をいうのでしょうね。人間観察眼の鋭さといい、こういう文章を書ける人には嫉妬を感じざるをえないです。