名探偵論争を再読して

 本棚の隅から佐野洋の『推理日記II』が出てきた。つい読みふけってしまった。

 この本のハイライトは都筑道夫と名探偵の是非を巡って意見を交換したいわゆる「名探偵論争」だ。しかしこの論争、両者の言い分がまったく噛み合ってなくて、読み進むうちに苦痛さえ感じてくる。

 噛み合っていない理由は単純だ。佐野のそもそもの問題提起、「シリーズ探偵は必要か」という問いに対して、都筑が最後までまともに答えていないためだ。佐野がシリーズ探偵を好まない理由は要するに、同じ探偵で何作も書くとマンネリになる、作家としての自分はいろいろな試みに挑戦したい、ということのようだ。

 だが、「実験精神」という点では、佐野は都筑の足元にも及ばない。拙豚とて佐野洋を愛読することにかけては人後に落ちず、90年代くらいまでに文庫で出たものは全作読んでると思うが、この点だけは認めざるをえない。というか、佐野洋を愛する理由の一端は、むしろそのマンネリ感にある、とさえいえる。

 その佐野が都筑に向かって、「マンネリが嫌だからシリーズ探偵は否定する」と断言するさまは、滑稽というか悲惨というか、いやそれはさすがに言い過ぎとしても、今読むと「よく言うよ」という気分が漂うのはいかんともしがたい。もしかしたら都筑道夫も当時そう思って、真剣勝負で論争する気をなくしたのかもしれない。

 まあそれはそれとして、「シリーズ探偵はなぜ必要か」という問いに自分ならどう答えるか、とちょっと考えてみた。

 まず押さえておきたいのは、「名探偵は人間である」ことだ。もちろん世の中は広いから、動物が探偵とか機械が探偵とか、はては神が探偵、みたいな作例さえないことはない。しかし圧倒的大多数のミステリは人間が探偵役をやっている。

 これは一見当り前に思えるかもしれないが、はなはだ重要なポイントに思われる。というのは、これはミステリを読むわれわれの興味が、「謎とその解決」それ自体と同じ程度に、「推理する人間」にあることを意味しているからだ。

 「推理したい」「謎をあばきたい」という気持ちは人間の本性のなかに否定しがたくある。われわれはミステリを読むことによってその気持ちを名探偵に仮託して代理充足を行う。

 そのときこの「推理」という行為は繰り返し行われなければいけない。人間の行為には一回性の行為もあれば複数回性の行為もある。推理はもちろん後者だ。推理癖を持つ人間が一回しか推理をしない、というのは不自然さをまぬかれない。「一回しか推理をしない名探偵」というのは形容矛盾のような気がする。だから「推理する人間」の生態をリアルに描くには、その推理という行為を複数回描くしかない。つまりシリーズ探偵にするしかないのではあるまいか。何度も推理を披露することによってはじめて「推理する人間」つまり探偵は、われわれの心のなかで生きてくる。すなわち魅力的な名探偵になる。

 ここで話は佐野洋に戻るが、佐野作品の登場人物のなかで、「もう一度会いたい」と思うような人物は一人もいないと思う。彼は徹頭徹尾登場人物を将棋の駒みたいに使うから。あえて言ってしまうと、佐野作品のなかで『轢き逃げ』より長い(枚数の多い)作品に傑作はひとつもない。性格のない人物と長い枚数をつきあうのはつらい。しまいにはもう何でもいいから早く終わってくれ、みたいな感じになってくる。

 だから、佐野洋があんなにシリーズ探偵を嫌ったのは、実は魅力的なシリーズ探偵を作る手腕がなかったからじゃないか、という気もなんだかするのだ。

【7/5付記】「佐野作品の登場人物のなかで、もう一度会いたいと思うような人物は一人もいない」とつい勢いで書いてしまったが、あとから例外を思い出した。「密会の宿」シリーズに出てくる旅館「なすの」のおかみだ。このシリーズは佐野作品には珍しく4冊も続いたが、それはこのおかみのキャラクターと旅館の面々によるチームプレイの面白さによるところが大であろうと思う。だが、そのおかみにしてもワトソン役であって、探偵役はどちらかといえば個性に乏しい人物である。