はや死の手にぞわたされつ

 
漏れ聞くところによれば、作品の配列は生年順なのだという。しかしとてもそうは思えぬほど、この並びは巧緻を極めている。なにしろ開巻いきなりジャン・パウルが神の不在を告げるのだから。

ここで拙豚のようなロートルはありし日の『幻想と怪奇』が卒然と思い出され、吐胸を突かれる。この作品が『幻想と怪奇』に掲載されたのは、おりしも同誌が季刊から月刊へと、素人目にもおぼつかない足取りで迷走を始めたときだった……人の心の弱みにつけこむ、卑怯きわまる始め方と言わずしてこれを何と言おう。

その後、ノヴァリス、ティーク、ホフマンと続く怒涛のドイツロマン派ラッシュのあと、舵はおもむろにイギリスへと切られる。イギリスというのは島国だからか、それとも奇人変人の国だからか、大陸勢と並べるととかく違和感ばかりが目立つ。しかし本書の場合、絶妙のブリッジを果たしているのは(広義の)ケルト気質である。マクラウド、マッケン、ロード・ダンセイニ。まあケルトいうのはジプシーみたいなもんだから(大偏見)、大陸をぶらついていようとどこをぶらつこうと違和感はありませんよね。生まれながらの放浪児であるアポリネールやビアスにしても……。そしてその間を縫って鬼火のように明滅するフランス名作群(リラダン、シュオブ、シュペルヴィエル……)

そして終盤にいたると、おもむろに矛先は、ブーメランのように半円を描いて、ハプスブルク神話の呪縛から逃れられぬ不肖の息子たち、カフカやシュルツに回帰していく。そして、失恋=喪失体験がすぐさま「総て」の幻視と結びつくという、あらゆる幻想文学ファンが多かれ少なかれ体験したであろう究極の真理を喝破するボルヘスへと。

いやすばらしい布置ですね。でも若い世代には、以上のような老人の繰言などには惑わされず、虚心に読み、虚心に味わってほしいと思います。新しい時代を作るのは老人ではないッ!(ナニソレ???)