音叉小説

飛行士と東京の雨の森

飛行士と東京の雨の森


雨の日にしか読んではならぬ本だそうだ。晴れた日にページを繰ると、名状しがたい災厄が起こるという。幸いにもここ数日の天気の崩れのおかげで、拙豚もようやく手にとれるようになった。

巻頭は詩的な「理想的な月の写真」、巻末は一種のSF「奴隷」。そのあいだにはさまっているのは何篇かのリアリスティックな話だ。これらリアリスティックな話はいずれも、日常生活になんらかの齟齬、違和感を持つ人たちを扱っている。こういう作品に共感できるひとは多いと思う。「淋しい場所」を探して歩いたことは拙豚にもある。そのうちの一つ、世田谷区北沢一丁目の児童遊園は、いまもなお往時の姿をとどめている。

だが巻末の「奴隷」。なんの罪悪感も持たず、あたりまえのように奴隷を買う人たちが、ある種の無神経さをもって描写されるこの話を、読者は違和感を、というよりむしろ不快感を感じながら読み進めるかもしれない。先行するリアリスティックな短篇には共感をおぼえつつ読んだ人も、この短篇には反感を感じるかもしれない。
だがこの「反感」ないし「違和感」こそ、わかりにくい場所に置いてある見えない音叉だ。つまり、現実の世界にも、同質の違和感を無意識にでも感じている人だけが、この短篇に共鳴しうるのではないか。
そうした人には、小説のラストシーン、つまり奴隷の消失する場面で、音叉が鳴るのが聞こえるかもしれない。すなわちこの消失によって、現実の日本にはいない「奴隷」が消失することによって、この小説の世界とリアリスティックな世界は重ね合わせられる。ここにおいて、小説内の違和感と現実の違和感が重ね合わせられるのだ。
言葉をかえて言えば、「奴隷」とそれに先行するリアリスティックな諸短篇は、ネガポジの関係になっている。

そこで巻頭の中篇「理想的な月の写真」にもどると、これは中井英夫「影の狩人」の変奏に見えないこともない、なかなかにBL好きの人が喜びしそうな話だが(あるいはそういう人が求めているのはこういう話ではないかもしれない、しかしこの微妙なテイストを感知できるのは畢竟そういう人しかいないのではなかろうか)、それはともかく、これもまた、「奴隷」と同じく、最終ページで存在しないものが消えてしまう。
「ないものが消えてしまうことによって何かが浮かびあがる話」として、巻頭と巻末の作品は通底している。ともあれとても巧緻な作品集だと思う。いい本を読んだ。低気圧に感謝。