本格ミステリ冬の時代はあった

 
 まずいことにまだダゴベルトを読んでいる。ある短篇にチェスタトンの「見えない人」を意識したと思えるふしがあったので、「見えない人」の初出年を調べようと検索していたら、こんなサイトにぶつかった。

 ここで森下祐行氏は「本格ミステリ冬の時代はなかった」ということを理路整然と証明している。しかしどうも違和感がぬぐえない。なぜなら拙豚の実感としては、「冬の時代」は厳然と、まごうことなくあったからだ。もちろんこの見解の差は本格観の違いに由来するものだとは思うのだが、それにしても違和感が大きすぎる……

 そこでつらつら考えた。もしかしたら、この見解の差は「春が来た!」という歓喜の体験を持つか否かに帰着するのではないか。春を知らぬ者は冬もまた知らない。それは当然のことだ。


 ここでひとつのトラウマを思い出す。あれは中学に入ったばかりの頃だから1971年のこと、「小説推理」という雑誌を買ったのだった。「推理」と名うつ雑誌だから、さぞかし推理小説がさぞかし沢山掲載されているだろうとナイーブにも思っていたのだ。ところがっところがあにはからんや、何がなんだか分からぬ小説ばかり載っている。まるで神田駅で降りたら古本屋が一軒もなかったようなショックだった*1! 当時は、その雑誌において「推理」という言葉がどういう意味で使われているのかさえ分からなかった。

 では何で春の訪れを知ったか、より正確に言えば春が訪れた感激を知ったかというと、忘れもしない、『猿丸幻視行』の乱歩賞受賞だ。1980年のことだから、ずいぶん遅い春ではある。暗号をメインテーマにして一冊の長篇を書いてしまうという、書くばかりではなく乱歩賞に応募するという、そして応募するばかりでなく実際に乱歩賞を獲ってしまうという見上げた根性に、当時は喝采を叫んだものだった。(ずっと後になってこの作品が「占星術殺人事件」の原形と賞を争ったことを知ったが、『占星術』といえど『猿丸』には負けると思う。なにしろ暗号をメインにした長篇なのだから。)


 もちろんそれ以前に本格があったことは知っている。『七十五羽の烏』は刊行直後に読んだし、雑誌「幻影城」は創刊号から読んでいる。しかしそれらは雪のあいだに咲いた雪割草の如きもので、とてもとても春が来たというものではなかった。雪というものは春が訪れれば消えてしまうので、後から歴史をふりかえっても、消えた雪を再現するのはむずかしい。それを実感できるのは、ただ当時雪に埋もれた記憶を持つものだけだ。

*1:蛇足ながら、チャリングクロス駅で降りてもやはり、少なくとも近くには古本屋は一軒もない。セシルコートという路地まで歩かねばならない。