土屋君の新刊を祝して

 
「レヴォカシオン」ですばらしい訳――達意の文章であり、かつそれがそのまま日本語の富ともなるような翻訳を披露してくれる土屋和之君には、漏れ聞くところによると、今後何冊かの出版計画があるらしい。

このたびその露払いのような形で、『10ぴきのペンギンくん』が出た。しかもこの露払いたるや、巧緻きわまる飛び出す絵本。もちろん味わうに足る訳文はここでも健在だ。

こういう本が皮切りとして出たということは、あたかも機械仕掛の少年が、後続のページェントの先導役としてまかり出でたさまを髣髴とさせる。近いうちに出るはずのあの本やあの本にまことに似つかわしいことだと思う。

それにしても、おもちゃ屋をデジタルなソフトが席捲し尽くしたこの二十一世紀に、こんな時代錯誤な、グラン・ギニョルめいた仕掛け絵本が刊行されるのはありがたいことだ。こういう古風な仕掛け絵本には、デジタルなおもちゃが束になってもかなわぬ一つの優位性がある。他でもない、「毀せる」という点である。

PCソフトだってトンカチで殴れば壊れるじゃないかと思った人もいよう。それは違う。

誰だったかの言によれば、「子供は自分の玩具を裏返し、また引っくり返し、引っ掻いてみたり、揺ってみたり、壁にぶつけてみたり、床に投げてみたりする。時々、機械的な運動をまたやらせてみる、時として逆の方向に。[……]ついに子供は玩具を半ば開いてみるのだ。なんといっても自分の方が強い。だが魂はどこにある? ここのところから茫然自失と悲しみが始まるのだ」……遺憾ながらPCソフトから茫然自失と悲しみがはじまることはまずあるまい。そこにモラルがないからだ。

グラン・ギニョルめいた、と先に言った。なぜそのように残酷なものが 拙豚にとって無邪気な絵本について語るための比喩となるのだろうか。

それは開いて見ればわかる。この本は「10人のインディアン」のペンギン版になっている。あの童謡と同じく、あるいは『そして誰もいなくなった』と同じく、ペンギンたちは一匹また一匹と、さまざまな災厄で消えていき、最後には「誰もいなくなって」しまう。

しかしこの本がアガサ・クリスティの推理小説と決定的に違うのは、ペンギンたちの消失に手を下すのが、小説の中の犯人ではなく読者自身ということだ。読者が仕掛けを動かせばそのたびにペンギンが一匹災厄にあう。動かさねばペンギンたちは無事である。

読者を犯人とする推理小説は、中井英夫をはじめとして何人もの作家がこころみてきたけれど、これはその決定版といえよう。どんな推理小説にも必ず含まれている作者の悪意が、いかにもフランス人らしいエスプリの利いた形であらわれているのと思うのは褒めすぎだろうか。

――しかしさすがに気がとがめたか、作者は最後の最後でどんでん返しを用意している。これは蛇足だろうか。それとも蛇足でないのか。わたしには分からない。判定できるのは子供だけなような気がする。