羅甸語は分ってるが、何と読むのだい

 
イルメラ=日地谷・キルシュネライトの編纂する独訳版日本文学叢書には『吾輩は猫である』も入っている。訳者はオットー・プッツという人だ。ドイツ人の翻訳にまま見られる過度な正確さは感じられるものの、なかなか好感のもてる訳だと思う。

冒頭("Gestatten, ich bin ein Kater! Unbenannt bislang. Wo ich geboren wurde, davon habe ich nicht die mindeste Ahnung. ...")にみられるように、原文の意味ばかりかリズムまで写し取ろうとした形跡がうかがわれるし、寒月をKaltmond、迷亭をWirrhausen、鼻子をAnastasia(つづりの中にNase=鼻が入っている)などとしているのは渡辺一夫訳ラブレーのようでもある。第五章に出てくる「旅順椀」はPott Arthurと訳している(Pottは鍋の意)。

訳注も細字で30ページ以上に及ぶ念のいったものだが、一箇所おっと思ったところがあった。最終章の、

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amicitiae inimica……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」
「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」
「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」
「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」

のところに注していわく、この amicitiae は初版本で amiticiae と誤植されていて、しかもこの誤植を現行のすべての版が踏襲していると。

ホントかいな、そんな、いまだに春風影裏に電光を斬っとるんかいなと思って調べてみたら、確かに新潮文庫などは誤植のままになっているが、さすがに岩波の漱石全集の最新版ではちゃんと直してあった。だからこの注は氏の勇み足といえよう。いくら国文学者でも、ラテン語が読める人くらいはいるでしょうよ。

それにしてもこの訳本をぱらぱら見ていて印象的なのは、滔々と胸を浸すペシミズムである。訳者は解説において漱石の英文メモ

I see in myself, in our neighbours, in professors and statesmen nothing but beasts. [...] I hate you, ladies and gentlemen, I hate you one and all; I heartily hate you to the end of my life and to the last of your race. My hatred which has been of no use to you, lying where it was deep in the recess of my liver, or heart, or kidneys [...]

を引用してみせるが、まさにそんな感じが本文からも漂ってくる。

そこで卒然として思い出した。拙豚が『猫』をはじめて読んだのは、小学五年か六年のころ、子供向けの文学全集でだったが(子供向けといってもリライトはされていなかったように思う。ラスト近くの「主人は早晩胃病で死ぬ」という文章の「早晩」が分からず、えっ苦沙弥先生も死んじゃったの?と不審に思ったのを覚えている。)、そのときの読後感もどちらかといえば暗澹としたものだった。人間の愚かしさにやりきれない思いをしたような気がする。げらげら笑いながら読むようになったのは高校に入ってからだ。『猫』はいまでもときおりユーモア小説として楽しむけれど、虚心に読むとほんとうはとても暗い作品なのかもしれない。