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- 作者: 喜国雅彦
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2005/01/01
- メディア: 文庫
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蔵書印とか蔵書票とかいうのは、あまり押したり貼ったりする気になれない。もちろん面倒くさいせいもあるが、人が書いた本に自分の印をつけるというのはどんなものだろうと疑問に思うからでもある。もしルネ・クルヴェルがまだ生きていて、自分の本にこんな蔵書票が貼られているのを知ったら気を悪くするのではあるまいか。
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ところが今日宮武外骨の『此花』を読んでいたら、「蔵書印はバンバン押すべし」という趣旨の文章にぶつかった。自分の敬慕する先人の蔵書印が押された本を珍重するのは分かる。ところが外骨先生は、無名の人も蔵書印を押せとすすめるのだ。
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又自己の名が世間に博く知られて居ない者でも、購入の図書には必ず蔵書印を押すべしである、後世に至って、ヨシ自己の名を知る人はなくても、その蔵書印のみを見て、昔時かかる同好者もあるしなるかと、その人に懐しく思わしめるだけでも、後世に知己を知るの一つである、のみならず、図書に蔵印多きは、その図書を貴からしめるの一因であるから、押印はその愛読書に対する忠実の行為といっても可いのである。
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でも何人もの蔵書印がペタペタ押された本なんていやだなあと普通の人は思うだろう。一時期ミステリの古本好きの間で話題になったT蔵書*1の例もあるし……。 しかし、この背後には、おそらくは世の蔵書家と百八十度違う書物に対する考え方がある。
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村田春海が云った如く、書は個人の私有物ではなく、天下共有の物である。今日我々がその一部分を愛蔵しているのは、永く後世に伝えんがため、一時これを保管しているに過ぎない。されば蔵書印は、後世の同行者に対して、一時保管者たりし事の証明ともなるべきものである、しかるにその証明をせない者の多くあるのは、無責任の保管者と云わねばならぬ、
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この文章の前半には満腔の敬意を表するにやぶさかではない。拙豚もたいした本は架蔵していないが、その心だけは肝に銘じたいものだ。いわゆる電書化で伝わるのは本のテキストだけであるが、いうまでもなく本は本という物体なのだから、電書化が進んでも保管が無意味になるとは思わない。
しかし、文章の後半、「されば蔵書印は……」以下は論理の飛躍がありすぎてついていけない。自己の名を捺すなどというさかしらをせず、あえて無名で通す保管者こそ奥ゆかしいのではなかろうか。
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