真理は時の娘

前世紀の終りころ、さる学者の方が、「読む本は年齢に応じてライトノベル→ミステリ→時代小説と変わる」という説を唱えたことがあった。その説に次のように反論した方がいたという(ソース失念)。

たとえば、「時代小説」を「褌」に、「ミステリ」を「トランクス」に、「ヤングアダルト」を「ブリーフ」に変えて、「男性の肌着は、年齢に応じて(って、つまり年を取るにつれて)ブリーフ→トランクス→褌に変わる」、その根拠は「高齢者は褌をはいている人が多い」って言ったら、みんな笑いませんか? 笑わない人は、多分年を取ったら今はいているトランクスもしくはブリーフをやめて褌はくようになる人ですね。(中略)

要するに、「高齢者が時代小説を読んでいる人間が多い」ということは、「読む本は年齢に応じて変わる(年取ると時代小説に変わる)」という説の論拠にはならない、ということなんですなぁ。ずばり、高齢者が時代小説を読んでいるのは、そのかたがたにとって、読書が身につく若いときに、時代小説・時代劇というものが「読みやすい・分かりやすいエンタテインメント」として、今よりはるかに重要な位置に存在していたからです。

これは一見もっともな論に思える。しかしどちらが正しかったかは、いまや誰の目にも明らかだろう。人口高齢化にともなう時代小説の興隆は恐ろしいくらいのもので、新刊書店やブックオフに行くとその量の多さに目がくらくらする。いっぽうミステリは淋しいことに、一時ほどの盛り上がりは見られない。

たしかに前世紀の最後の30年くらいは、ミステリは「読みやすい・分かりやすいエンタテインメントとして、重要な位置に存在していた」。しかし残念なことに、トランクスが時代を超えてはき続けられるようにミステリが読み続けられることはなかったようだ。まことに「真理は時の娘」とはよくいったもので、ただ時の流れのみが、何が正しく何が間違っているかを最後に決める。

とかいう感慨はさておき、とにかくクラニー先生まで時代小説を書く世の中になったわけだ。

「でも時代小説なんて……」と尻込みされる方は、まずはこの本の第三話「遠い富士」を読んでほしい。バカミス系の叙述トリックと、『泪橋』や『『湘南ランナーズ・ハイ』 系の泣かせが渾然一体となった、小説の魔術師の技を堪能できることだろう。