ある『アムネジア』論をめぐって1

論理の蜘蛛の巣の中で

論理の蜘蛛の巣の中で


昨日触れた石堂藍さんの『アムネジア』論はたいへんな力作であって、通り一遍の読み方しかしなかった拙豚にとっては、このpdfファイルの一ページ一ページが驚きと発見の連続であった。
しかし、それでもなおかつ、全体の論調には承服しがたいものを感じる。そうはいっても、もちろん石堂さんの読みにケチをつけるつもりはまったくない。一冊の本は、それが稀有のものであるほど、いかようにも読めるものだ。
これから何日間かにわたって、石堂論と対比させつつ「自分はこう読んだ」というのをぽつりぽつりと書いていきたい。だがそのまえに『アムネジア』を発掘しないと……。以下、煩雑を避けるために敬称は一切省略。失礼な感じを与えるかもしれないがご了承を乞う。

『アムネジア』はどこに紛れこんだかわからなくなってしまったけれども、『論理の蜘蛛の巣の中で』ならいつでも手の届くところにある。だからまずここからはじめてみよう。
石堂のアムネジア論のなかでは、巽の書評は深読みの端的な例として挙げられている。「巽は、平たく言えば<宇宙人の介入>が語られていると読み取って、興ざめしたのだろう(p.16)」 しかしこの石堂の言こそが深読み、もっといえば誤読ではなかろうか。拙豚の見るところでは、巽は「<宇宙人の介入>が語られていると読み取って」もいないし、「興ざめ」もしていない。
たしかに巽は「稲生は後半で、彼らの背後に、宇宙からの意志の働いていることを暗示する」と書いている(p.258)し、「宇宙からの意志なるものは、その流れが一瞬見せる水面のきらめきにすぎない」とも書いている(p.259)。この「〜にすぎない」という表現が「興ざめ」と解釈されたのだろう。なぜなら他の部分には「興ざめ」を連想させる表現はないから。

しかしこの「宇宙からの意志」説は、統計学でいうところの帰無仮説、つまり後から覆すことをあらかじめ予定した説だ。いいかえればミステリでいうところの「偽の解決」なのである。
このような論理の運びはある意味でミステリ的なので、もしかしたらミステリを読みなれていない人はとまどうのかもしれない。その論理が巽独特の幻視的レトリック(ここでいえば「言葉(記憶)の流れ」「濁った水」「水面のゆらめき」など)を纏っているのも、もしかしたら誤読を誘発する原因なのかもしれない。
僭越を承知でパラフレーズすると、この部分はだいたい次のようなことを言っているのと思う。すなわち、一連の記憶されたことどもには、一見宇宙からの意志が働いているようにも見える。しかしその「宇宙からの意志」を思わせるものは、「生々しい場所と肉体の記憶」、あるいは低俗な言葉の縺れ淀んだ濁流が、さざなみのかげん、あるいは日光のかげんによってつかのまきらりと光るようなものであって、濁流はあくまで濁流以外のものではない、と。(以下次号)