「ポエティック・クラッシュ」

文学界 2010年 09月号 [雑誌]

文学界 2010年 09月号 [雑誌]


文学界九月号に「ポエティック・クラッシュ」という巧緻な短篇が載っている。沢渡と漣という二人の詩人によるトークショーの話だ。
沢渡は詩壇の登竜門といわれる新人賞を受賞して以来、エッセイにも活動の場を広げ、女性に人気の高い天然系詩人。対する漣は同じ新人賞をきわどいところで取り逃がしたあと、自らの雑誌を主宰しつつ、やっとトークショーで沢渡の相手がつとめられる程度に這い上がってきた、鬱屈した心情を持つ詩人である。物語は漣の視点から、その内的独白を交えながら進む。トークショーは漣がリードを取り、人気詩人の沢渡を立てつつも、主張すべきところ、自己宣伝をすべきところはきちんとしていく。

質問タイムに移ると、一人の中年女性が勢い込んで手を挙げ言った。

「(沢渡さんは、)さかんに自分がイケてない人のように書きますが、実際にはモテそうだし、見かけ悪くないし、才能あるし、どこへ行っても注目されてるじゃないですか。
……認めてください、自分はモテる詩人だし素敵な人生を送ってる、って。そして、本当にイケてない人の真似をしないでください」。

( ゚д゚) ( ゚д゚) ( ゚д゚) ……想像するに、きっとこの人は、「私は太宰さんの文学が嫌いなんです」と言った誰かのように、これを言いたい一心で、わざわざ会場まで足を運んだのだろう。

沢渡のとぼけた返答を聞いているうちに、衝動にかられた漣はマイクを取る。質問者の非難をルサンチマンと決めつけ、魅力を持たない者は誰にも愛してもらえない、といいつのる。しかしその批判の矛先は、質問者へというよりは漣自身に向けられていることを彼は自覚している。「血を流しながら、己自身が捨てられるゴミ屑であることを、捨てる側の言葉としてつきつける、それこそが俺の詩だった」。

しかしそれでは質問者は置いてけぼりだ。漣の返答は自ら認識するように我田引水で、質問者への答えにはなっていない。だが、次の一言だけは質問者の心を見抜いている――「惨めじゃない奴がわたしたちの唯一の拠り所を詐称するな、という怒りでしょう」
古い話で恐縮だが、光文社古典新訳文庫で『カラマーゾフの兄弟』がベストセラーとなったとき、その訳は一部から執拗な批判にさらされた。何がそこまで批判者たちをかりたてたのか。それはつきつめて言えば、こいつはドストエフスキーを愛読することの惨めさが分っていない、つまり、「惨めじゃない奴がわたしたちの唯一の拠り所を詐称するな、という怒り」である。すなわちその憤怒は、ある局面において先の中年女性と結びつくところがある。そして実際、『『悪霊』神になりたかった男』などの著作によって、この翻訳者は「分ってなさ」を自ら暴露したわけだけれども。

しかし、あれだけ質問者を容赦なく叩いた漣も、「自らの拠り所」を侵す偽者への憤怒を共有していた。それも無意識に。ある映画で自らの詩を剽窃された漣は、そのプロデューサーに陰湿な復讐を企てていることが物語の最後に明かされる。