アンソリットにはじまる

完全版 突飛なるものの歴史

完全版 突飛なるものの歴史


本書は先に作品社から出た『突飛なるものの歴史』の完訳版である。抄訳特有の(内田百けん流にいうならば)「片付かない」感じが払拭され、丸ごと水揚げされたその巨体が賞味可能となったことをまずは慶びたい。

「突飛(アンソリット)」と、たとえば「驚異(メリヴェイユ)」はどう違うか。ひとつは、「突飛」にはまごうことなく貶める(pejorative)ニュアンスがあることだろう。「突飛な服装」「突飛なふるまい」と人があなたに言うとき、あなたはその独創性を褒められているのではない。規範から外れていることを非難されているのだ。
もうひとつ、距離の問題がある。「驚異」というとき、たとえば「大自然の驚異」というとき、われわれは傍観者に自らの立場を置く。ところが「突飛」というとき、われわれはその突飛なるものをすぐ身近に感じ、そしてそれゆえにこそ、反感をいだくのである。
そして、さよう、本書はまごうことなき「突飛」の書、すなわち反抗の書であり既成概念転覆の書であり、もうひとついえば、60年代の空気を存分に吸った書でもある。断じて「驚異」の書ではなく、「おなら」、「悪食」、「でぶ」と人に反感をもたらすものに博識を傾ける「突飛な」著者による書なのである。

本書でとりあげられている「突飛」のサンプルはみんな海の向こう側の話なので、その距離のせいで「突飛」と「驚異」は見分けがたく感じられるかもしれない。しかし、著者はとっておきの爆弾を用意している。しかも冒頭で。
他でもない、著者は「突飛」の起源を宗教においているのだ。「慣習や信仰はそうしたまったくの想像的空間から生まれた。「突飛なるもの」が文明の本質的要素だったのはそのゆえである。(p.19)」 つまり「慣習」なるもの、「正統的教義」なるものも、そのもとをたどれば「突飛」に帰着する。すなわち両者は同じ穴の狢だというのである。拙豚にとって、本書最大の読みどころは、大衆文化に帰着するそのウロボロス的結末とあわせて、この冒頭にあった。

「本書は澁澤龍彦だけでなく、じつは種村季弘をいっそう深く、あるいは多面的に理解するためのひとつの重要な資料である」と訳者の高遠弘美氏はあとがきでいう。これはまことに至言で、たとえば『愚者の機械学』でみられるような、世に容れられぬアウトサイダーを語っているとみせかけ、終盤でくるりと「おまえらも同じ」といわんばかりにエスタブリッシュメントに刃を向けるその骨法は、「慣習と突飛とは同じ穴の狢」と見るロミと無縁とはいいがたい。あるいはその唯詐欺師史観というべきものにしても。あるいは神話時代と現代を直に結びつける発想にしても。
澁澤は60年代を「ダサい時代でした」と評し、こうした60年代的反抗を意識的に切り捨てる方向で自らの完成に向かったが、種村の場合はおそらくそうではない、おそらくは戦後からずっと続く時間の流れが入り子細工のように折り畳まれ現代につながっているのだ。いかにも60年代的訳書である『ビリッヒ博士の最期』や『絞首台の歌』がなぜ最晩年になってでたのか。
ともあれ、いまだ正当に評価されているとはいいがたく、澁澤と違い一冊のモノグラフィーさえない種村季弘という古今無類の存在を考えるうえで、本書はまたとない素材だ。
また、澁澤・種村の二巨頭に並々ならぬ影響を及ぼしたという点で、将来誰かが(戦後)日本幻想文学史を書くとしたら、この本の存在は避けて通れないものにもなるだろう。

少々の誤植など気にすることはない。老若男女買えよかし。