Like a bridge over troubling water

マルチリンガルの外国語学習法  (扶桑社新書)

マルチリンガルの外国語学習法 (扶桑社新書)


優れた本は、どんなジャンルであれ優れた本である限りにおいて幻想文学に漸近していく。この本も例外ではない。単なるノウハウ本の枠を超えて(あえて大げさに言えば)虚の人間存在に触れるものになっているからだ。
著者には6歳から前の記憶がないそうだ。まるで「パソコンでメモリーが完全に消去されてしまった」かのように。なぜかというとずっと外国暮らしだったのが6歳のとき日本に戻ってきたからだという。そしてそれまで喋っていた外国語を忘れるのと一緒にすべての記憶を失ってしまったとのこと。
おお! まるでどこかのSFアンソロジーに載っていたボルヘスが言葉を忘れる話のようではないか!

著者は文法の習得を重んじる。「会話主体で、具体的シチュエーション設定のなかで教えられる範囲の文法情報を選んで載せたような本」は、「少なくとも独習者には絶対にお勧めしない」
著者は文学作品を多く読むように薦める。それも19世紀から20世紀はじめの正統的なものを。
著者のイタリア語はイタリア人に「文法は極めて正確だ。でもすごく古臭い」と言われ、フランス語はフランス人にvery classicalと言われるそうだ。

「「外国語」というものは何かの「手段」ではあっても「目的」にするものではない。」と著者は書いている。教養とかその他の理由でそれ自身を目的とすることを否定する実用主義である。
でもそれにしては上のエピソードはなんか変ではないか。普通の語学実用派は「習うより慣れろ」といい、文法に過度にはこだわらない。だからむろんvery classicalなどと言われることはなかろうし、もし言われたらそれを恥とするだろう。
しかしここにこそ本書の眼目がある。

"No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent," とセント・ポール大聖堂のある司祭がむかしのたまったそうだ。しかし中には"every man is a piece of the continent"なる断言が信じられない者もいる。そういう人がislandでありたくなければ、橋をかけるしかないではないか。それも勝鬨橋や瀬戸大橋のような堅牢な、very classicalな橋を。それが著者の文法重視、古典重視となってあらわれるのだと思う。
対して"a piece of the continent"派は堅牢な橋などは必要としない。continentであるからには、たとえば車があればどこへでも行けるからだ。そのとき重要なのは車の燃費のよさであり、速度であり、あるいはかっこよさであるだろう。