存在しないものよ、御身が讃えられますように

『私の書かなかった本』という題から、捨てられたアイデアやメモが雑然とまとめられた書物が連想されるかもかもしれない。たとえば星新一の『気まぐれ博物館』のような。

だがそれは間違いだ。『中国の科学と文明』の大碩学ジョゼフ・ニーダムが、『台湾誌』のサルマナザールさながらのぺてん師――まるで種村季弘の本から抜け出てきた人物かのように立ち現れる冒頭の一篇『中国趣味について』をちらとでも目にしたら最後、めくるめく博識と卓見に呪縛されたようになって、ページを繰る手が止まらなくなるだろう。

すなわち、それらのテーマが一冊の本として書かれなかった理由が各論考に付されているという一点を除けば、これは一般に試論集(Essays)と呼ばれるジャンルの優れた達成に他ならない。ちょうど『完全な真空』が、対象の実在性にこだわりさえしなければ優れた書評集に他ならないように。

実際、『私の書かなかった本』は『完全な真空』とdual(双対)ともいえる関係を持っている。『完全な真空』がレムが書かなかった本について書いた本と見なせるのと同様に、『私の書かなかった本』は存在しない本に対して薀蓄をかたむけた本でもあるからだ。そんなわけでレム好きの諸氏にもおそらく本書は一読に値すると思う。

強面のスタイナーがここでは自らのウィークポイントをさらけだしている(ように見える)のも魅力だ。たとえば大人物への嫉妬を語る『妬みについて』、犬好きと人間嫌いが炸裂する『人間と動物について』、自らの性体験を語る『エロスの舌語』などなど。あのシオランが魔がさしたかのように自分のウィークポイントだけを寄せ集めてつくったキュートな小著『オマージュの試み』をちょっと思わせる。

しかし本書の眼目をなすのはちょうど真ん中に置かれた『ユダヤ人について』と最後に置かれた『論点回避』であろう。前者では、書かなかった本について書くということがユダヤ人のアイデンティティに根ざすことが示唆され*1、後者では本が書かれない究極の理由――プライバシー――がテーマとなっている 

*1:「存在しないものよ、御身が讃えられますように」は本書p.141に引用されているパウル・ツェランの詩句