魔術なき魔術

 
プラハのルドルフ宮には16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパの精神史的展開が集約されている。その点でこの『綺想の帝国』は、エヴァンスの『魔術の帝国』と見解を同じくしている。しかしこの本には魔術の「ま」の字もオカルトの「お」の字も出てこない。

アルチンボルドの絵に代表されるルドルフ宮の人目を驚かすもろもろは、皇帝の変畸な趣味によるものではないと著者は主張する。その点で『綺想の帝国』という邦題は、内容と相反している。この本が狙っているのはむしろ『綺想の帝国』という陳腐な観念の転覆だ。ちなみにもとの題は"The Mastery of Nature"。

あえて綺想というのでならば、それはルドルフ宮よりも著者カウフマンの頭の中を形容するにふさわしい。ゲント=ブルージュ写本群に見られる時祷書の余白に描かれた瞞し絵(トロンプ・ルイユ)に自然事物の非聖化を見たり(第1章)、デューラーやレオナルドの陰影法(影を真に迫って書く技術)がグリマルディの回析論(1665)によって乗り越えられていく過程を追跡したり(第2章)、奇天烈画家としての評判のみ高いアルチンボルドが実は科学精神を持つ自然観察家であったり(第4章)、皇帝のウィーン訪問を祝したてられた凱旋門のルドルフ像の足元にコペルニクス説に従って動く機械仕掛けの地球儀があったり(第5章)、……と魔術以上の魔術的世界が本書では展開される。

しかし、大事なことなので二度言うが、この本によれば、そのバックボーンとなっているのは奇想(conceit)ではないし魔術的世界観でもない。それは驚異展覧室(ヴンダーカマー)を論じた最終章によって明確化される。

すなわち、本書によれば、科学・テクノロジー・人文主義・諸芸術等々が渾然一体となり連環するルドルフ宮が現出せしめた世界は、やがては自然掌握(mastery)へと変容していくところの、皇帝による世界統治(mastery)の象徴的次元における表現であるというのだ。