木曜日ラビは魚臭を嗅いだ

 

 
「人生のたそがれをかの地で過ごすことを望んでもよかったはずだ。でもプリツバテスキのように、あるいはリリエンクローンのように夢は萎れた。樹木さながらに根付いていたはずのあの地と僕とのつながりは絶たれてしまった。一人の友がときたま密かに便りをくれる。でも、エルゼ・ラスカー-シューラーがマクス・ブロートに宛てたみたいに、「親愛なるプラハのプリンス」と書いてくれる女は僕にはいない。あてどなく手紙を待つ日々。「人生の三分の一を郵便配達夫を待つのに費やした」と日記に書いたホランとどんな違いがあるというのか。せめてもの慰めに僕はウィーンの電話帳をめくる。あふれるほどのチェコ系苗字、Vavra, Zajic, Petricek, Fiala, Zakopal, ……」
 
 と、最終章で身も蓋もないプラハへの愛惜を綴るのはローマ大学でスラブ系文学を講じるアンジェロ・マリア・リペリーノ教授である。大仰さに辟易する方もおられようが、オペラさきわうヘタリアの地においてはこの程度の感情表現は突出して異様というわけではない。

 それにこの文章が書かれた1973年当時、チェコスロバキアとソ連との関係がきわめて緊迫していたことも忘れてはいけない。
 
 もっとも、著者がこんな風に取り乱しているのはお終いの数ページだけで、残りの部分はほどよい抑制が効いている。小説や伝説のなかのイメージの連鎖をきりもなく手繰りながら、魔術都市プラハの(あえて言えば)「虚像」を浮かび上がらせる手腕には感嘆のほかはない。

 日本で言えば澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』とわれらが東殿下の『江戸東京怪談文学散歩 (角川選書)』をミックスしたような本といえよう。あたかも『他人の夢』の女主人公のように、災厄により失われつつある地の精霊を必死に召還(évocation)せんとする試みと思しい。

 日本ではなじみの薄いチェコ語文献を大量投入しているのも有難くも好奇心を刺激される。
 
 本書で描かれるのは1973年当時消滅に瀕していた虚像プラハであるからして、もうルドルフ2世はまるっきり変人皇帝だし、ラビ・レーウは魔術師以外の何者でもない。ゴーレムを作るのくらいはほんの朝飯前で、カバラの術で自らの死を先延ばしにし、ラテルナ・マギカを使いプラハ城(フラッチャイ城)全体を自ら陋屋に招きよせ、アハシュエロスの幻で笑わせる。*1
 
 というわけで一読に値する面白い本なのだが、でもやっぱりこの著者はちょっと変な人なんじゃないかと思わないでもない箇所もある。日本の大学教授なら絶対に使わないであろう形容がときどき出てくるのだ。カレル・チャペックの山椒魚のことを「ルルイエに棲むのがふさわしい」と書いてみたり、『裏面(対極)』の舞台ペルレが小麦粉と干鱈の臭いをさせている*2ことからインスマウスの魚臭を連想したり、クトゥルー神からアルチンボルドの絵を連想したり。前後の調子からすると冗談とかギャグというわけでもなさそうだ。

 もっともラブクラフト評価は日米とヨーロッパ大陸で微妙に差があるのは事実で、ボスフォラス以西ではテオバルト翁は必ずしもマニアだけが喜ぶカルト作家とはみなされていない。だから例えば「ウエルズの火星人を思わせる」というのと同程度の形容と著者は思っているのかもしれない。しかし魔術都市プラハに似つかわしいかといえば、すごくでかい疑問符がつくのではあるまいか。
 

*1:このシーンはサイレント映画の『ゴーレム』にも出てくる

*2:法政大学出版局『対極』 p.93